「遅刻はできないわ~
そう思ってたけど、なんだか私、間にいあいそうもないみたい。」
さすがに80kmもの距離を、高速もない対馬のクネクネ下道を
ガソリンスタンドPit-inの時間を含めて1時間45分で走破することはできず。
結局レンタカー返却予定時刻7時に対し、返せたのはちょっと遅れて7時12分のことでした。
でもこっちとしても、このままじゃ間に合わないだろうなー、
ということについて何も考えなかったわけではありません。
返却予定時間は7時、返却場所は今夜泊まる厳原のホテル、だったんだけど
実は厳原の10km手前に対馬やまねこ空港があり、レンタカーのお店はここにあり。
なのでレンタカーで厳原まで行くのではなく、
空港のお店に返却するのなら、10km分早く、7時までには確実に返却できて。
そして返却後、もし厳原へ帰宅する店員がいて、
帰宅する車に同乗する格好で厳原まで送ってもらえればなぁー…そう思って。
で、その旨をお店に電話したんだけど、
「ちょっとくらい遅れても構わないので、厳原のホテルで返却してください。」
とのこと。
そして予想通り、7時にちょっと遅れて今晩泊る『ホテル対馬』に到着。
僕としては、朝は港に車を持ってきてくれたもんだから、
返却時もてっきりホテル周辺でレンタカー回収担当者が待っててくれるのかな?
なんて思ってたんだけど、 辺りにはそれらしい車や人の姿は全くなくて。
「うーん、この車、どうすりゃいいん (・_・?)」
しばしボー然として悩んだ後、車を近くに路駐して、ホテルに相談してみることに。
ホテルに入るとフロントは2階にあるらしく、階段があって。
そこで階段を上ってフロントに行き、対応してくれたフロントレディに尋ねてみると、
「それなら1階のタクシー乗り場がレンタカーの代理店になっているので、
そちらに返して下さい。」
とのこと。
なるほどー!タクシー乗り場なら24時間営業だから、
それならちょっとくらい遅れても平気なわけだ。
それにしても、レンタカー返却場所が宿泊場所に直結とは、コイツは便利。
そういえば、昼間何度も遭遇した韓国人観光客を乗せた観光バスの中には
『ホテル対馬』と書かれたバスもあったな。
ホテル・タクシー・バス・レンタカー、結構手広くやってるみたいだなぁ。
(写真は翌朝撮影。)
さて、これが今晩の寝床。楽天ネット予約で朝食付き6500円。
大きなソファがデーンと置いてあり、この値段なら部屋は結構広い方。
なんだけど、僕の旅行スタイルってだいたいギリギリまで観光してて、
部屋に着いてもすぐどこかに呑みに喰いに行っちゃうし、
ヘタすると昼間散々温泉巡りしてるんでお風呂も必要としない、なんて場合も多くて。
なので基本寝るためのベッドさえあればOKなのだな。
だけどもこのホテル、厳原繁華街の中心にあるし、レンタカー返却場所直結だし、
フロント横にはネット用PCも置いてあったし。
一言ことで言うと『超便利』。
次回から対馬来た時の定宿にしようかな。
さてさて、本日はというと、
上見坂公園で朝ごはんのおにぎりを3つ食べたきり、
昼食を食べる時間も惜しんで、
車を運転して写真を撮って…のヘビーなローテーションに終始して。
なので朝から何も食べてなくて、お腹はもうペコペコ。
そこでホテルのすぐ裏手にあった『潮路』という居酒屋に入ることに。
まずは駆けつけ一杯生中を頼み、
「何か対馬の美味しい物が食べたいんだけど。」
と注文すると、
「それならお刺身なんてどう?」
ということで、お刺身(小)を注文。
対馬海流で揉まれたお刺身はプリプリ新鮮で、
舌の上で蕩ける様でいて、それでいて歯ごたえがあって、とっても美味!
このボリュームで700円!メチャ安い!
(大)だったら多分絶対一人で食べ切れなかっただろうな。
その他のお料理も、特に物珍しいメニューというものではなかったんだけど、
じっくり煮込んであったりして、とっても美味しくて。
「対馬にはお仕事ですか?」
一見客な僕に、カウンター内の店の大将が話しかけてきて。
毎度一人旅なんで、旅先のお店では大体店員にこう尋ねられるんだよね。
「いえいえ観光です。対馬大好きリピーターで、これで対馬来るの4度目なんですよ。」
「へー、そうなんだ!」
僕が対馬リピーターと知り、なんだか嬉しそう。
すると隣の客のお兄さんも会話に加わってきて。
店内は僕を中心にすると、
カウンター席に僕がいて、
目の前のカウンター内には店の大将がいて、
僕の左隣の席にお兄さん、
更にその左隣の壁際の席にもう一人のお兄さん、
という配置。
話を聞いてみると、
左隣のお兄さんは大将の幼馴染で、現在首都圏在住の元対馬島民(年末帰省中)、
で隣の隣の壁際のお兄さんは対馬在住の校長先生で、二人は双子なんだそうな。
壁際の校長先生はどちらかというと聞き役だったけど、
対馬在住だけどあまり対馬島内の各所に行ったことがない大将、
元対馬島民で若い頃に島を離れちゃったんで対馬島内の各所に行ったことがなかった首都圏民、
対馬とは縁もゆかりもないんだけど今日対馬島内を走り回ってきたばかりの愛知県民、
とで意気投合して、
対馬について、あーでもないこーでもない、と盛り上がって。
お兄さんは
「残して帰れないし。」
と、お土産にと持ち込んだ甲州ワインの一升瓶からコップに赤ワインをナミナミと注いでくれるし、
大将は
「どうせ余っちゃうんだし。」
と美味しそうな(実際美味しかったけど)料理をこれでもかこれでもかと出してくれるし。
いやー、呑んだ呑んだ!喰った喰った!
実に楽しかったぁ~!美味かったぁ~!
最後におあいそしてもらうと、
「エ、エッ~!」
て言うほど安くて。
それではあまりにも申し訳ないんで、英世さんを一人、余分に渡してきました。
次回対馬にまた来る時は、絶対もう一度訪れよぉーっと!
こうして心地よい酔いと満腹感で、部屋に戻ってくるとすぐさま爆睡。
おはようございます。
今日はようやく出国日。
なんだけど、釜山行き高速船の出港時刻は15:15。
そこでちゃっちゃと朝ごはんを食べたらレンタサイクルを借りて、
船の出る時間まで厳原市内のスポット巡りをしよう、そう思ってたんだけど、
朝起きてみると残念ながらあいにくの大雨。
なのでチェックアウト時間ギリギリまでホテルの部屋で粘り、
歩いて行ける近所のスポットのみ数ヶ所廻ってから船に乗ろう、と方針を変えて。
昨晩は居酒屋から戻ってすぐにベッドの上で力尽きて爆睡してしまったので、
まずは部屋のユニットバスでノンビリ朝シャンして気分をスッキリさせてから、
その後食堂へ朝ごはんを食べに向います。
食堂のテーブルでは大勢の韓国人宿泊客が朝ごはんを食べていて、
僕の席は窓際のカウンターにポツンと一人分だけ用意されていました。
メニューはごく一般的な和朝食。
ご飯の他、玉子焼き・焼魚・昆布・なます・お味噌汁・冷奴・生玉子・味付け海苔・漬物…。
と、全くありふれたもの。
「明日からしばらくはこの定番ともお別れか…」
そう思いながら玉子の殻を割り、醤油を垂らしてかき混ぜていると、
「?」
ある違和感に気付きました。そして、
「!」
その理由に思い至った時、慌てて部屋にデジカメを取りに戻り、写したのがこの写真。
それって、何だか解ります?
それは『日本のお客様席』の札。
なんだけど、この札には『일본사람=日本人』とハングルで、
わざわざ日本語よりも大きな文字で追記されているのです。
そもそもこの札が和朝食を食べる当の日本人客に向けられたものなら。
ハングルで書いてあっても、どうせ大多数の日本人はハングル読めないし、
(僕はたまたま読めるけど。また対馬の人は読める比率が高いかなとは思うけど。)
『日本人』と漢字で書いてあるだけでOK。ハングルは必要なし。
では誰向けの札?
厨房に韓国人が働いていて、その人が準備をする時のために、という可能性もあるけど、
この札は僕以外の、ハングルが読める韓国人宿泊客に対してと思われ。
つまりこの『일본사람』の追記には
「これは日本人用に用意した朝食です」
→「なのであなた方韓国人用に用意した物ではありません」
→「だから勝手に食べないで下さい!」
という、裏の真の意味が込められていると思われ。
この何気なく置かれた札だけでも、韓国人を相手に商売していく大変さが垣間見えて。
さて、チェックアウト時間の午前10時が近づいた頃…
あれだけ本降りだったのに、雨はピタッと止んで。
そして都合よく、ホテルの通路には
「レンタサイクル貸し出し中、フロントまで」
の張り紙があって。
このホテル、本当に超便利だなぁ。定宿確定だな。
ちなみに自転車のことを「チャリンコ」「チャリ」と言いますが、
我が愛知では「ケッタ」「ケッタマシーン」と言います。
ただ婦人用自転車・原付のことは、「ママチャリ」「原チャリ」とは言うけど、
「ママケッタ」「原ケッタ」とは言わないんだよなぁ、なぜか。
といことで、ちょっとスタート時間が遅くなったけど当初の予定に戻り、
わずか500円で確保した機動力で厳原市内のスポット巡りに行くことに。
さて本日まず最初にやってきたのは厳原八幡宮神社。
お決まりの神社巡りからスタートです。
ただホテルから300mと離れていないんで、自転車だとあっという間に到着。
古社らしく小ぶりながらも山門があって、それを潜ると…
拝殿があります。
御祭神は、神功皇后(じんぐうこうごう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、
應神天皇(おうじんてんのう)、姫大神(ひめのおおかみ)、武内宿禰(たけうちのすくね)。
八幡大神とは第十五代・應神天皇のこととされ。
鎌倉幕府を開いた源氏が守護神として鶴岡八幡宮を勧請しているように、
ご利益は武の神様とされています。
ちなみに日本全国たくさんある神社の中で、一番数が多いのはこの八幡社だったりします。
そして神功皇后は応神天皇の母后で、仲哀天皇の皇后。
この女神様については
2010年秋の釜山 パート5 帰国から帰宅までちょっくら寄り道編
で1度説明しているんでそちらも読んで欲しいんだけど、
社伝によると、彼女が三韓征伐を成し遂げて凱旋する途中にこの地の清水山(後述)に行幸し、
「この山は神霊が宿る山である。」
として山頂に磐境を設けて、神鏡と幣帛を置いて天神地祇を祀り、
「永く異国の寇を守り給え。」
と祈ったとのこと。
ということで、ここも逆侵攻と外敵防衛に纏わるスポットでもあるのだな。伝説だけど。
そして天武天皇の御世(7世紀後半)に清水山の麓に社殿を造営して八幡大神を祀ったのが、
この神社の始まりだそうな。
なので創建以来1300年以上。かなりの古社です。
仲哀天皇は十四代天皇で、神功皇后の夫。
御祈祷のお告げの結果が気にいらず、神様をウソツキ呼ばわりしたため、
神罰が当たって絶命しちゃった天皇。
お祀りされているのはあくまでも神宮皇后のオマケ。
ご利益っていったい何があるんだろ?
武内宿禰は
十二代・景行 → 十三代・成務 → 十四代・仲哀 → 十五代・應神 → 十六代・仁徳
と、280年もの長きに渡って五代の天皇に大臣として仕えた忠臣。
もちろんこんな長い間大臣として仕えていたということで、
実在していたとしても、単独の人物とは考えられず。なので
初代武内宿禰 → 武内宿禰Jr → 武内宿禰3世 → 四代目武内宿禰 …
というように、『武内宿禰』を代々襲名したんじゃないかな。
ということでご利益は、延命長寿。
そして最後に姫大神。
豊後国(大分県)・宇佐神宮の二之御殿にも祀られているけど、由緒不明の謎の女神様。
ちなみに僕は2008年に宇佐神宮に初詣に行き、
神功皇后・仲哀天皇・武内宿禰の人間関係とか、姫大神の正体とか、
その時いろいろ調べたんだけど、説明するととんでもなく長くなっちゃうので、ここでは書きません。
もし興味のある方は直接連絡下さい。
ということで、神功皇后のご利益は、
「安産」と「子育て」、また「勝負事」、そして「海上安全」転じて「交通安全」。
なんだけど、安産守りが必要な嫁も恋人も女友達も周りにいない寂しい身の上なので。(TmT)
そこで『時刻表系旅人』としては必需品(あっても因らない)な交通安全守りを購入。
本殿の裏手には宝物殿があって。
300円払って鍵を開けてもらいました。
中には宗氏と縁が深かった武藤氏(PART2参照)から拝領した室町時代の鎧とか、
三十六歌仙の蒔絵額とか、結構いろいろな物が展示してありました。
残念ながら館内は撮影禁止。
境内にはいくつか摂社があるんだけど、羅列してもつまんないので、
興味深いと思ったものだけ紹介します。
それはこの天神社。
御祭神は安徳天皇と菅原道真公。
安徳天皇はPART2でも取り上げた平家の血を引く天皇。
ここで祀られているのは、公式プロフィールとして壇ノ浦の合戦で身を投げられた幼帝なのか?
それとも合戦後60年以上にも渡って身を隠して生き永らえた対馬の伝説による老帝なのか?
ま、そのどちらにしても、この世に怨み辛みを思い続けていてもおかしくないんだけど。
そして菅原道真公といえば天神様。
現在では学問の神様として超有名だけど、その正体はというと、
平安時代に政敵に讒訴されて京から大宰府に左遷され、
失意の内に亡くなり、 死後怨霊となって祟って京に天変地異を巻き起こした、
日本の歴史上屈指の怨霊神。
つまりこのお社は二柱の祟り神を鎮魂するためのものなんだけど…
ところがこのお社には別の神様も相殿でお祀りされていて。
それは今宮・若宮神社。
御祭神は小西マリアとその子。
誰それ状態ですよね。ごもっとも。
今から20数年前、テレビ東京系で『風雲!真田幸村』という大河時代劇をやっていて、
主人公・真田幸村のガールフレンドとして小西行長の遺児・麻利亜という女性が出てくるんだけど、
そのモデルとなった人物と思われ。
でも多分こんなマニアックな時代劇、誰も見てないだろうな。
突然ですが、ここで関ヶ原の合戦前後の宗氏について。
その頃の当主は二十代・宗義智(よしとし)。
彼は豊臣秀吉の家臣でキリシタン大名である小西行長の娘・妙(洗礼名マリア)を妻とし、
関ヶ原の合戦では舅と共に西軍側として参戦するんだけど、合戦は東軍・徳川軍の大勝利。
西軍の主要武将だった舅の小西行長は囚われ、
戦犯として切腹(名誉ある死)も許されず、斬首(屈辱的な死)となります。
しかし娘婿だった宗義智は、朝鮮に対して持つ外交のパイプにより、
朝鮮との国交回復をにらむ家康の深慮によって、
斬るよりも生かして活かした方が良い人材と判定され、
徳川家に逆らった罪は詰問に留められ、所領を安堵されます。
義智は徳川家への恭順の意を示すため、舅・妻と同様にキリシタンだったんだけど棄教、
戦犯の娘である妻マリアを離縁し、産まれたばかりの子と共に対馬から追放します。
マリアはその5年後、(失意の内に?)病気になって、長崎で亡くなったらしい。
で、マリアの子は小西マンショといいます。
父・義智に認知してもらえなかったので、仕方なく母方の姓を名乗り、
キリシタン追放令でマカオへ国外追放処分にされた後、喜望峰周りでポルトガルに到着。
更にローマに渡って司祭の位を得ます。
そしてその後禁教下の日本に戻ってきて、アンダーグラウンドで布教活動をするんだけど、
捕縛されて処刑されてしまい。
ということでこの二柱、母子共々大往生とはとてもいえない末路で。
経歴から祟り神になる素質充分。
なので安徳天皇と菅原道真公という二大怨霊神と共に祀られて、鎮魂されているんだろうな。
それにしても。
異教徒である一神教のキリシタン(キリスト教徒)の母子が神社で神として祀られるなんて、
さすが八百萬の神々を祀る多神教・日本神道だなぁ。
8,000,000+2=8,000,002、あと二柱くらい増えても影響ないってか。
懐が深いというかなんというか、なんでもありだなぁ。
ということで宗氏は関ケ原合戦後も所領を安堵され。
外様ながらも国持ち大名。と、かなりの格式。
そして厳原の街は鎌倉時代以降の対馬の中心地だったんだけど、
江戸時代は対馬藩十万石(格)の城下町でした。
そしてそして対馬藩の特徴としては、
鎖国中においても幕府に代わって隣国・朝鮮との外交窓口になっていたことでした。
でも外様ながらも十万石の国持ち大名、とは一見聞こえはいいけれど、
平地の少ない対馬の実石は、わずかに米4,500石・麦15,000石程しか獲れなくて。
銀山開発によって栄えた時期もあったけれど、
朝鮮との貿易も、交易品だった朝鮮人参や木綿が国産化されると振るわなくなり。
そこで幕府より九州各地などに33,000石の飛び地を貰い、
更に天領(幕府領)35,000石分を預かり、
更に更に幕府より外敵からの防衛に関する補助金として
所領30,000石に相当する3万俵の蔵米を支給されたり、
朝鮮使節の応接費用として8万両を下賜されたり、
どうにかこうにか藩財政をやりくりして、朝鮮外交のために十万石の格式を保っていたみたい。
ということでここ厳原は城下町なんで、あたりまえだけどお城があります。
それも
・金石城
・清水山城
・桟原城
の三城も。
このうちまずは桟原城にGO!
宗氏は時代により拠点を転々と移してきたんだけど、
戦国時代になって金石城を築き、本城としました。
そして江戸時代になって朝鮮使節を迎えるために近世城郭に改築したんだけど、
いかんせん金石城は港から近くて。
せっかく上陸した使節団のパレードがあっという間にお城に到着しちゃうんで、 絵にならない。
そこで江戸時代中期になって、使節団パレードが映える程度の
ほんのちょっと内陸に新たな府城として桟原城が築かれたみたい。
そして西の浜の船着き場から桟原城の大手門まで、
『馬場筋通り』と称する直通の大道(現在の国道382号線)が開設され、
使節団に見せつける様に
この馬場筋の両側に宗家一門及び家中上士の屋敷が門を連ねました。
ということで現在でもその名残で、国道の両側には武家屋敷跡や
家老屋敷や藩校の立派な門が遺っています。
また市街地には「朝鮮通信使幕府接遇所」の碑が立てられ、
再開発に合わせて発掘調査が行なわれていました。
ところでところで。
毎年夏、『厳原港まつり対馬アリラン祭』という、対馬最大のお祭りが開かれていました。
このお祭りのメインエベントは、金石城から厳原港までを朝鮮通信使を模して練り歩く
日韓交流イベント『朝鮮通信使再現パレード』。だったんだけど、
現在仏像問題(PART3参照)で対馬島民の反感を買い、反韓感情がMAXに。
そこで今年は祭りの名称から「アリラン(有名な朝鮮民謡の名前)」を削除して
『厳原港まつり対馬祭』に変更。
そしてそして、30年以上も続けられてきたパレードも中止に。
ま、現在の日韓関係、去年から最悪のまんま、というか更に悪化してるしなー。
といことで、お次は『馬場筋通り』を北上し、桟原城に到着。
城跡にはこんな感じで石垣が残っています。
んで、いつもの城巡りなら城内に入ったり、城壁のすぐそばまで行くんだけど…
ところが残念ながら桟原城は明治維新後、新政府によって接収され、
そのまま対馬防衛のための陸軍基地に転用され、
更に第二次大戦後もそのまま陸上自衛隊の基地として活用されている、という、
現役バリバリの「お城」。
そして駐屯している陸上自衛隊対馬警備隊・通称「やまねこ部隊」は、
重火器こそ配備されていないものの、
有事の際には本土からの支援が来るまで耐えられるだけの弾薬が常にフルに用意されている
自衛隊では珍しい即応性の高い実戦部隊で、
習志野の第一空挺団と並ぶ精鋭部隊として有名なのでして。
なのでお城巡りで城跡付近をウロウロして写真をパチパチしてるだけで、
基地を偵察しているスパイに間違われちゃう、なんて可能性もなきにしもあらず。
ということで早々に退散。
今度は一転、『馬場筋通り』を南へと走らせ、次の目的地、お船江跡へ向かいます。
桟原城からお船江跡までは距離としては3.6km程しかないんだけど、
途中けっこうきつい上り坂があるんで、
自転車全力でペダル、漕ぎながら坂を登るぅ~
だもんで、ガチにどれらいえらい。
(あ、名古屋弁で、『どえらい』=「とんでもなく」、『えらい』=「疲れる」、の意味です。)
しばらく自転車を漕いで、お船江に到着。
江戸時代、海に面した各藩はその藩船を格納する船屋(船江)を設けていましたが
対馬藩にももちろんあって。
というか、対馬藩の存在理由は、なんと言っても隣国・朝鮮との外交窓口。
そして唯一、鎖国中なのに海外へ航海できる船を保有することが認められた藩でした。
つまり他藩の船は沿岸航海しかしない(できない)のに、
対馬藩船は対馬海峡の荒波を越えなきゃならない。
なので御用船の整備は、対馬藩にとって最優先課題だったと思われ。
ということで、人工の入江に四つの突堤と五つの船渠(ドック)が設けられ、
満潮時には木造の大船が出入できる広さと深さがあって、
かつ干潮時は干上がるように、お船江が造られました。
そして現在でも遺構は原形よく保存されていて、往時の壮大な規模を窺うことが出来て。
現在これほど原形を保存している所は全国に他に無いんだそうな。
朝鮮との中継地・対馬を象徴する遺跡といえるかな。
さて市街地の方に戻って来ました。
次の目的地は先ほどちょこっと説明した金石城。
このお城、戦国時代に築かれ、桟原城が築かれるまで は宗氏の居城でした。
そして江戸時代になって近世城郭に改築されたんだけど、
朝鮮使節を迎えるには港に近すぎて。
そこで江戸時代中期になって桟原城が築かれると廃城に…なってないんだな、 これが。
桟原城の方が新たな府城とされたんだけど、
そちらは藩主の住居、藩の政庁、朝鮮通信使の迎賓館として使われ、
こちら金石城の方は軍事施設としての城として、引き続き並列して使われたのかな?
江戸時代には一国一城令があって、基本的に一国・一大名にお城は一つと定められ。
例外もなかったわけじゃないけど、
こんな感じで一大名が近所の二城を併用している例って、他になかったんじゃないかな。
城マニアとして、ちょっと興味深い。
ところで、金石城が戦国時代に築かれたお城といっても…
対馬は農地が少なく(=年貢が少ない)、朝鮮貿易にも独自のパイプが必要。
ということで、統治するには独特のノウハウが必要な
あまり魅力ある土地とは言えなかったので、
対馬を攻め取ってやろうという領土的野心を持った他の戦国大名はおらず。
もっぱら逆に宗氏が兵力・財力を蓄えては北九州に侵攻する、という構図でした。
なので金石城は敵の侵攻に備えた実戦バリバリの堅牢なお城、というわけではなく。
また現在では公園化もされてしまっているので、お城としての見所は
再建された天守代用の大手二重櫓門、石垣、城内庭園、それくらいしかなくて。
さてそんな城跡の一角に、『李王家宗伯爵家御結婚奉祝記念碑』が建っています。
永らく朝鮮は清国の冊封国(属国)として清国皇帝から朝鮮王に任じてもらってたけど、
日清戦争での日本の勝利により『大韓帝国』として独立。皇帝を名乗ります。
しかしながら、その後の日露戦争での日本の勝利の結果、
保護国を経て日本に併合されます。
(防衛はともかく、併合しないで内政は自治に任しておけば(ほかっときゃ)よかったのに。)
朝鮮国王(大韓帝国皇帝)だった李王家は日本の皇族待遇を受け。
そして両国の絆を深めるため、
朝鮮最後の皇太子・李垠と日本の皇族・梨本宮方子女王殿下が政略結婚します。
(日本皇族の『女王』は「Queen」の意味ではなく、天皇の女性曾孫のこと。)
この話は『虹を架ける王妃』というドラマにもなってるし、
ソウルの昌徳宮に行くと、晩年方子様がここに住んでいたというということを
日本語ガイドから説明を受けるんで、けっこう有名。
なんだけど、実は逆バージョンもあって。
皇太子・李垠の異母妹だった皇女・徳恵翁主という人が、
(『翁主』は朝鮮国王の側室が産んだ姫のこと。)
旧対馬藩主の家系である宗武志伯爵(PART2参照)に嫁いだんだそうな。
んでこの碑は、それを記念して
当時対馬に住んでいた朝鮮の人々によって建てられた物なんだそうな。
政略結婚だったけれど、二人の仲は悪くなくて。
でも時代の荒波が二人の公私のどちらにも打ち当たって…
徳恵翁主は晩年、義姉の方子様と二人で、
昌徳宮にひっそりと隠棲していたとのこと。知らんかった。
日本人は特に見向きもしない石碑なんだけど、
韓国人観行客は必ずガイドに連れられてやって来て、説明を受けてるよなぁ。
さて、厳原にあるもう一つのお城、それは清水山城。
金石城の背後にそびえる、神功皇后が天神地祇を祀った清水山。
その山頂から稜線に沿って、一の丸・二の丸・三の丸の曲輪が築かれました。
そして山頂には現在でも石垣が残り、麓からでも城跡を望むことができます。
山頂の城跡まではトレッキングコースになっているようなので、
次回こそは金田城と同じく、ぜひ登ってみたいなぁ。
さてこの清水山城、実際の築城者には諸説ありますが、
築城の命を下したのは、天下人・豊臣秀吉。
群雄割拠だった戦国時代は、秀吉によって天下統一が成され。
そして日本国内に戦がなくなると、秀吉は新たな戦を求めて朝鮮に出兵します。
そしてそしてここ清水山城は、九州-壱岐-対馬-釜山への
兵站基地・防備線の一城として築かれました。
ところで秀吉の戦歴を振り返ると、野戦もそれなりに強かったけど、
墨俣一夜城・小谷城攻め・鳥取城兵糧攻め・備中高松城水攻め・石垣山一夜城、
などなど、城攻めエピソードが満載。
そして本拠地として築いたお城も、長浜城をかわきりに、
姫路城・伏見城・大坂城・聚楽第・肥前名護屋城、などなど、超豪華なラインナップ。
ということで、城攻め&築城の名人と呼べる武将でした。
海外への出兵なので、兵站基地はもちろん最重要。
なんだけど、今回の場合は朝鮮軍が日本に侵攻くるわけではなかったんで
兵站基地としての城をわざわざこんな山城にする必要は全くなくて。
最前線司令部として築かれた九州・肥前名護屋城といい、清水山城といい、
普請したのは部下でも、総構えを設計したのは間違いなく築城大好きオヤヂ・秀吉。
天下人のいい老後の道楽だよなぁ。
そして朝鮮との交易で生計を立てていた対馬にとって、
朝鮮出兵といい、出城の築城といい、
大迷惑以外の何物でもなかったんじゃないかな、とは思うんだけど。
ちなみに朝鮮出兵後の日朝関係はというと、
朝鮮の敵・豊臣家を滅ぼした徳川幕府(敵の敵は味方)の時代になり、
日本と朝鮮との板挟みになった宗氏の
形振り構わぬ東奔西走(なぁんと朝鮮国王からの国書を偽造!)によって
なんとか講和条約が成立。
ようやく国交が回復することとなります。
さて対馬最後の目的地、金石城のすぐ裏手にある万松院へ。
このお寺は対馬藩主・宗氏の菩提寺で、歴代藩主のお墓があります。
入り口には対馬最古の建造物である桃山様式の仁王門と仁王像があります。
入場料300円を払って境台へ。
設置されたスピーカーからは観光客への音声ガイドが日本語と韓国語で無限ループ。
そして本堂の前に『諌鼓(かんこ)』が設置してあります。
諌鼓とは、領主に対して諌言しようとする領民が打ち鳴らすために設置された太鼓。
『諌鼓苔蒸す』とは、苔が蒸すほど諌鼓が永らく用いられていない、
つまり善政が施こされている、という意味。
また『諌鼓鳥が鳴く』とは、諌鼓の上で鳥が囀り・遊ぶほど諌鼓が用いられていない、
これまた善政が施こされている、という意味。
普通一般的に『カンコ鳥が鳴く』の『カンコ鳥』は『閑古鳥(カッコウ)』。
静かな誰もいない朝に、カッコウがどこかもの悲しく鳴き声を上げるところから、
お店に『閑古鳥が鳴く』、それはお客が少なくて商売が流行ってない・ 儲ってない、
という、あまり良くない意味で使われます。
しかし一方、警察や消防署や軍隊に『諌鼓鳥が鳴く』と用いれば、
それは彼らが出動することもないほどに世間一般がとっても平穏無事である、
という、全く違う良い意味になる訳で。
うーん、日本語って難しいなぁ。
万松院は宗氏の庇護を受けていた江戸時代はかなり大きいお寺だったみたいだけど、
明治維新によってかなり規模が小さくなってしまったみたい。
ということで、まずは明治12年に建てられたこじんまりした本堂へ。
そんな訳で、本堂の内陣もいたってシンプル。
ちなみに頭上に掲げられている『萬枩(松)精舎』の横額は、
朝廷より賜った後水尾天皇第三皇女・鏡宮の書だそうな。
その内陣の右手の板間には、朝鮮国王から賜ったという
香炉・花瓶・燭台の三具足一揃えが飾られています。
『具足』というと鎧・兜といった「武具」のことを指すんだけど、
『三』が足されて『三具足』となると「仏具」になるのだなぁ。
そしてその奥の部屋には、
江戸幕府から預けられた歴代徳川将軍の位牌が安置されています。
関ヶ原の合戦では徳川方の敵だった宗氏だけど、
朝鮮との国交回復のために東奔西走したこともあって、
その後はそれなりに篤い信頼を得ていたんだなぁ。
ということで、ここ万松院には、
・朝廷より賜った横額
・朝鮮国王から賜った三具足
・幕府から預けられた歴代徳川将軍の位牌
が揃い踏み。
これらのアイテム、特に歴代将軍の位牌は、
朝鮮使節と交渉する上で
幕府の代弁者としての権威付けに大いに役立ったと思われ。
さて本堂を後にし、万松院最大の見所、宗家墓所へ。
ただし墓所へは、百雁木(ひゃくがんぎ)と呼ばれる132段もの自然石の大石段を
上っていかなければなりません。
「…階段、上らせてもらおうか…」
ただし、階段のセンターを一気に二段飛ばしてJUMP、という訳にはいかず。
「…この先はやっかいだぜ…」
たかがちっぽけなプライドもないので、杖をついてトボトボ。
狭い階段、ぶつかる相手もおらず、足音を聞く人もおらず。
そして…
「…見えたぁ!」
ようやく誰も待ってないテッペンに到着。
百雁木の上には『御霊屋(おたまや)』と呼ばれる三段構造の墓所が広がっています。
最も高い所は歴代藩主とその御正室が祀られる上御霊屋、
中段が側室や童子が祀られる中御霊屋、
下段が一族や分家が祀られる下御霊屋、となっているそうな。
宗家は10万石格なんだけど、ここ万松院墓所は、
加賀・前田家100万石、長州・毛利家38万石(関ヶ原前は120万石)と並び
日本三大墓所に数えられているんだとか。
僕はこの2か所には行ったことなくて、
会津・松平家23万石、米沢・上杉家15万石(関ヶ原前は120万石)、
大垣・戸田家10万石、といった大名の墓所には行ったことがあるんだけど、
これらに比べたら全然規模がダンチにデカイ。
さて、御霊屋に上ってみての僕の感想はというと…とっても静か、ということ。
ま、僕以外無人ということもあるし、
お寺の境内のスピーカーで流されてた音声ガイドもここまで届かないから、
と言っちゃえばそれまでなんけど。
でも、 本当に、静寂。
風もなんだかちょっと心地よく吹き抜けていきます。
日が暮れてからなら絶対怖いだろうけど、なんだかとっても居心地よくて。
当にサンクチュアリ(聖域)、パワースポットってな感じ。
しばらくボーっとしてました。
だけど、とうとうタイムリミット。
そろそろ自転車返して港に向かわないと。
「さぁ~、プサンへ行きましょっかぃ!」
ということで、PART4『一人乗りの自転車』 … ケッタで厳原激走 8.5km
が終了。
これにて対馬編がようやく片付きました。
次回やっとこさ釜山行きの船に乗ります。
またまた気長にお待ちくださいな。
P.S.
大変お待たせしてどうもすみません。
実は今回Windows XPが壊れてPCが立ち上がらなくなり。
そこで慌ててライセンスのあるVistaを入れたところ、上書きインストールされて、
本体ハードディスクに入っていた様々なプログラムが埋まってしまい、
半分ぐらい書き上げてSAVEしてあった旅行記データもLOST(TmT)
データが消えちゃったショックでしばらくは旅行記書く気力がなくなってたんだけど、
それでも気を取り直して再び書こうとしたら、今度はドライバの不調で、
キーボード変えても『K』と『Shift』keyが動いてくれない状態に。
前回書いた文章を思い出しつつ、IME手書きパッドを使ってムリクリ書いてたんだけど、
とうとう手書きパッドも動かなくなり。
仕方なしにPCを新調したんだけど、
Windows8の仕様に戸惑ってしばらくは使いこなせず。
ようやく慣れたんで今度は外付けHDにSAVEした旅行記データを読み込もうとすると、
今度は旅行記データを認識してくれなくて読み込みできず。
… なんてことが多々あったもんで、とんでもなく遅くなってしまいました。
5大ドームツアーも始まっちゃったしね。
(ちなみに全11公演に全参戦予定!)
しかし、ようやく、なんとか使いこなせるようになったかな。
なので次回からはなるべくスピードを上げて書いていきたいなぁ、
なぁんて思っております。
P.S.2
ということで、PART4のタイトルは『一人乗りの自転車』。
ネタの元曲名は『二人乗りの自転車』。
コンサートで歌われることはないけど、
現在研究生がリバイバルで『パジャマドライブ』公演をやっているので、見るチャンスはあるのな。
結構好きな曲だったりする
チームB・3rd#4・『二人乗りの自転車』
https://www.youtube.com/watch?v=8W4jvLUxtrQ
続編は作者執筆中です。どうぞお楽しみに!(管理人)
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文章・写真共にはにーさんの著作です。