さてこれが到着した大阪港国際フェリーターミナル。
安藤忠雄氏という、地元大阪出身の文化勲章も受賞されている著名な建築家の設計です。
真ん中に円筒の芯がある、ガラス張りの逆円錐型の建物。
海側から見ると全面総ガラス張りの様に見えるんだろうけど、
ただし逆円錐型は270°とぐるり全周していないので、
陸地側の出入口方向から見ると、ちょうど切れ込みが入ったこんな感じに。
1Fにフェリー会社のカウンターや出入国ゲート。
3Fには展望ラウンジと屋外展望デッキ。
2Fには…何かあったかな?
↑(上)『パンスタードリーム』と(下)『新鑑真』
この大阪港国際フェリーターミナルからは
今回乗ってきた韓国・釜山行き『パンスタードリーム』が月・水・金の週3便出港する他、
中国・上海行き『蘇州號』が毎週木曜日に入港し、翌金曜日に出港します。
その他に『新鑑真』が月曜朝に入港し、翌火曜に神戸から上海へ向けて出港する、
という入国/出国の港が異なるちょっぴり変則な運航をしています。
ということで、今日月曜日は『パンスタードリーム』と『新鑑真』の入港が重なる、かなり忙しい朝。
ターミナル内は釜山と上海から大荷物を運んできた韓国人と中国人でごった返しでした。
ということで、大阪港から出入港する国際航路はこの3航路のみ。
…なんだけど、国内旅客航路に関していうと、
南港フェリーターミナル:東予・新居浜、新門司
かもめフェリーターミナル:宮崎、志布志
コスモフェリーターミナル:別府・松山(下り便は通過、上り便のみ寄港。※現在寄港廃止)、小豆島(季節便)
沖縄定航埠頭:奄美群島・沖縄
と、点在したターミナルから四国/九州/沖縄各地へのいくつもの航路も出ていて、
この他にもかつては高知や沖縄経由台湾などへの航路もあって。
なので大阪時代は週末よく原チャリ載せて、いろんな所に行ってたよなぁ。
ということで大阪港は、日本一の長距離旅客航路が集まる港といっても過言ではないでしょう。
ターミナルからは最寄り駅である地下鉄・コスモスクエア駅までシャトルバスが随時運行。
同室のおじさんもバスの乗客となり、ここでお別れ。
バスには大荷物を持ち込む韓国人と中国人が大勢乗り込み、ピストン輸送。
ただ僕はターミナル内外の写真を撮ってたりしてたんで、とうとうシャトルバス最終便に乗り遅れ。
なので、まぁ大した距離じゃないんだけど、コスモスクエア駅まで歩くはめに。
「さて、これからどうしようかな…」
大阪から名古屋までの所要時間は、新大阪からのぞみでわずか51分、
難波から近鉄特急アーバンライナーでも2時間5分。と、あっという間に着いちゃう。
まだまだ昼前なんで帰りたい気分じゃ全然ないんだけど、
かといって大阪には通算5年程仕事で居たんで半分地元感覚だし、
ちょうど4週間前には毎年恒例の岸和田だんじり祭りを観に来てたんで、
大阪を改めて観光したいという欲求が全然なくて。
また、この3週間前には平城京遷都千三百年の奈良も訪れていたし、
1週間前は神戸市内温泉銭湯&有馬温泉巡りをしたばかり。
と、立て続けに関西遠征が続いていた時期だったんで、行きたい所がどこも思い浮かばなくて。
ということで、駅までの道を歩きながら、友人に帰国報告がてら相談のメールを打つと…
「なら京都はどう?」
というアドバイスのメールが。
ほほー、京都ねぇ。
もちろんもう両手の指では数えられないくらいは来てるけど、そういえばここんとことんとご無沙汰だなぁ。
いわずもがな、京都といえば、
「鳴くよウグイス平安京」・「泣くよ坊さん平安遷都」
と年号語呂合わせで覚えたとおり、794年の遷都から千二百年以上の歴史がある古い都。
で、時代区分的には「平安京都」「戦国京都」「幕末京都」に見所が特に多いんだけど、
「幕末京都」なら折しもこの旅行の直前、NHK大河ドラマ『龍馬伝』でとある場所が舞台になったばかりだし。
さて、上図は大阪・京都間の鉄道MAP(抜粋)&水路。
大阪から京都へ電車で行くなら、JRの新快速や阪急京都線という選択肢もあるんだけど、
今回はとある目的地の沿線を走る京阪電車をチョイス。
「♪朝靄(もや)の~ 京橋で乗り~換え
あなたの背中を探す 長いエスカレーター
週末は~京都へ行こう~ いつもより~もっと遠くへ~…」
もうお昼ちょっと前だけど、今日は月曜日だけど。
在阪時代に買った京阪テーマソングCD『朝靄の京橋で乗り換え』を久々に口ずさみながら、
サビ頭の次のAメロにある地下鉄御堂筋線と交わる淀屋橋にやってきて、
カップリング曲『出町柳から』(上り電車)のサビにある「愛のダブルデッカー」に一人で乗り込みました。
ということで、
「そうだ 京都、行こう。」
(をいをい、それはJR東海の「新幹線で行く京都旅行」のキャッチフレーズでぃ。)
朝靄の京橋で乗り換え(YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=wpYiSeXg-8k
出町柳から(YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=sXbZpsjxCno
ということで、京阪本線中書島駅で下り、やって来ました目的地。
そこはどこかというと…京都・伏見にある船宿・寺田屋。
約6年半ぶりの再訪です。
さて現在では京都-大阪間は、車でも鉄道でも手軽に移動できますが、
車もなく、鉄道も走ってなかった江戸時代はというと、もちろん主な移動手段は徒歩。
そこで約十二里(50km弱)の京街道(大坂街道)が整備されていました。
ところで人が1日に歩ける距離といえば、時速4km(分速67m)として、
成人男性で約十里(40km)、女性や老人なら約八里(32km)程度。
なので健脚な人ならともかく、一般人には1日ではちょっと移動が難しい距離。
…なんだけど、速く楽に移動する方法が他になかったかというと…
三十石船に乗って移動する、という方法がありました。
京都-大阪間には大河・淀川が今も昔も流れています。
そして大阪は『水の都』と呼ばれるくらい、市内に運河が張り巡らされました。
また京都・伏見も、かつて南には巨椋池が広がり(昭和初期に干拓されて消滅)、
江戸初期に廃城となった伏見城の外堀である濠川が巡らされていて、とても水運に適した土地柄。
ということで、大坂-伏見の間を三十石船が行きかってました。
所要時間は、下り船なら流れに乗るだけなので約6時間と超快速。
上り船は流れに逆らうので約12時間の船旅、だけど乗ってれば伏見に着いちゃうんでチョー楽チン。
ということで、定員28~30名の船が1日で1往復、
そして最盛期には160隻程も運行していたということなので、輸送人員は片道約4500人/日。
当時の日本では最も輸送能力の高い交通機関であったことでしょう。
この絵は有名な歌川広重(安藤広重)の浮世絵、『京都名所之内 淀川』。
三十石船が描かれています。
その三十石船の横の小さな舟は、船客相手に餅・汁・酒などを「くらわんか~」と言って売る、くらわんか舟だそうな。
今でいうところの、新幹線や特急のワゴンサービスだね。
大坂には道頓堀や淀屋橋など4ヶ所に乗り場があり、
そして伏見にも4ヶ所に乗り場があり、その前には船宿が何軒も立ち並んでいました。
船宿とは現在の鉄道のターミナルのような存在。
旅人は船宿に入ってから船に乗るというシステムになっていて、
乗客の食事代・手数料を主な収入源にし、旅館も兼ねていました。
寺田屋も江戸時代初期から続くこうした船宿の一軒。
大藩・薩摩藩の指定宿とされ、
建物の前にある乗り場が『寺田屋浜』と称される程の、伏見屈指の船宿でした。
ということで、寺田屋の前は駐車場になっていたけど、当たり前だけど伏見濠川の流れに面しています。
うーん、すぐ隣の京橋のたもとから川辺に下りられる階段があったみたい。
知らんかったぁ。次回はぜひ行ってこないと。
さて寺田屋は、幕末の『寺田屋騒動』と『寺田屋事件』という、
2つの大きな事件の舞台となった場所として有名です。
最近の幕末大河というと、
2004年 新選組!
2008年 篤姫
2010年 龍馬伝
と放映されましたが、これら全てに寺田屋は登場します。というか、
「維新は寺田屋の一室から始まった」
とまで言われる事もあるくらい、寺田屋抜きで幕末は語れません。
ということで、建物の前や庭にはいろんな石碑が立ち、
「刀痕はいずこ寺田屋宝柱」
と書かれた史跡碑があります。
建物の中に入る前に、先に庭の方へ行ってみることに。
まずは何といっても、寺田屋といったら坂本龍馬。小さいながら銅像があります。
彼は幕末の志士。
土佐藩を脱藩するも幕臣・勝海舟に師事して『神戸海軍操練所』の塾頭となり、
日本初の株式会社・総合商社『亀山社中』、後の『海援隊』を結成し、
薩摩藩と長州藩の間に立って『薩長同盟』締結を斡旋し、
『船中八策』を策定して『大政奉還』を成し遂げる原動力となり…
現代でいえば、与野党の有力政治家の間を奔走する最強のフリーター、ってところでしょうか。
彼のことを詳しく書けば大河ドラマ『龍馬伝』1年分のボリュームがあるので、興味のある人は
・本屋で小説『竜馬がゆく』を買ってきて読む
・漫画喫茶で『お~い!竜馬』を読む
・『龍馬伝』のDVDを借りてきて観る
などして下さい。
そして寺田屋ニ大事件の内の一つ、『寺田屋騒動』記念碑が立っています。
きっと事件の顛末が事細かに書かれているんでしょう。
碑には漢字がびっしりと彫り込まれています。
庭の一角には維新当時の井戸があり、またお登勢明神を祀る小さなお祠があります。
お登勢さんは幕末当時の寺田屋の女将。
女手一つで繁盛する船宿を切り盛りし、
気の荒い船頭達はもとより、負けず嫌いな薩摩藩士、
傍若無人な伏見奉行所の役人や新撰組隊士とも渡り合った肝っ玉な人物。
ということで『新選組!』『龍馬伝』にも登場し、
その他の映画・演劇などでも、実力派女優によって演じられます。
そしてこのお登勢さん、養女にしていたお龍さんと龍馬の仲を取り持ったことから、
この様に若い男女の守り神として祀られているというわけで。
それにしても一庶民に過ぎないお登勢さんが明神として祀られるなんて、
さすが日本には八百万(やおろず)の神々がいらっしゃるだけあって、
懐が深い、というか、何でもアリだなぁ。
「神社メグラー」としては実に興味深い。
さて建物に入り入場料400円也を支払って靴を脱いで上がると、そこには広間があります。
寺田屋は薩摩藩の指定宿だったので、
天保年間(1830~43年)に改築した際に島津家から拝領した大黒柱がドーンと立っています。
この日は大河ドラマ『龍馬伝』第36話『寺田屋騒動』からまだ2ヶ月弱しか経ってなくて、バリバリのご当地。
なので平日にもかかわらずかなり大勢の観光客が。
玄関から広間の写真を撮りたかったんだけど、人影に阻まれて全然写せなくて。
そこで部屋の反対側に廻りこんでようやくパチリ。
週末はきっともっとごった返してるんだろうな。
さてこの広間、寺田屋で起きた事件その一、『寺田屋騒動』の舞台になった場所。
ちなみに『寺田屋騒動』とは、薩摩藩士の同士討ち。
大政奉還に先立つ5年前のまだ倒幕の機運が熟していない頃、
この部屋に薩摩藩の倒幕過激派の志士達が集まり謀議を行いました。
そこに穏健派の薩摩藩士が派遣されて説得を試みるんだけど失敗、
同士討ちによる激しい斬り合いとなり、
双方合わせて9名が斬死・切腹処分となる壮絶な事件が起こりました。
庭の記念碑はこの事件についての詳細が書かれている訳で。
『篤姫』第36話「薩摩か徳川か」が、ちょうどその話。
YouTubeに映像が落ちてます。
https://www.youtube.com/watch?v=G1BNRpXfGkg
ところで入口や広間には、とある新聞の切抜きが貼ってあるんだけど、
それについては後ほど。
さて表の階段を上って二階に上がります。
こちらは梅の間、坂本龍馬が逗留していた部屋とされています。
床の間には龍馬の肖像画の掛け軸や刀や鉄砲などが飾られ、とっても不思議な雰囲気。
何だかここだけ空気が違っていて、見の引き締まる感じがします。
なお寺田屋は現在でも現役の旅籠。
見学の営業時間が終わった後、梅の間以外の二階の部屋に泊まることができるんだそうな。
さて、話の都合上、
「京へ来たなら一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本龍馬 昔白刃の裏ばしご」
と詠まれた、梅の間のすぐ横にある裏ばしご(裏階段)を下りて、再び一階へ。
するとそこにはお風呂場があり、風呂桶がありました。
裏ばしごとお風呂場はこんな位置関係。
風呂場、裏ばしご、梅の間。
そうです。
この3ヶ所が寺田屋で起こった事件その二、『寺田屋事件』の舞台なのです。
『新選組!』『篤姫』でも描かれ、
『龍馬伝』では第36話と翌週37話冒頭に渡り、たっぷり描かれました。
事件の顛末はというと…
(↑高知県・龍馬歴史館の蝋人形・2005年旅行時)
薩摩藩・長州藩とも、関ヶ原の合戦で徳川軍に負けてから、屈辱に耐えること260年余。
しかし同じ倒幕勢力でありながら、両藩が連携をとることはありませんでした。
そして『蛤御門の変』では敵同士となる展開となり、長州藩は薩摩藩・会津藩によって京を追われることに。
長州藩士はこの変での惨敗が相当悔しかったようで、
履き物に『薩賊会奸』などと書きつけ、踏みつけるようにして歩いたといわれています。
こんな最悪な状況の両藩の間に入り、『薩長同盟』締結を取り持った人物こそ、坂本龍馬でした。
これによって倒幕は一気に加速することになり、
龍馬は徳川幕府にとっての『おたずね者』となります。
そしてこの日寺田屋に泊まっていた龍馬に、伏見奉行所の同心達が捕り物に…
宿の外の様子がおかしいことにお風呂場で気づいたお龍さんは、
半裸のままこの裏階段を駆け上がり、龍馬のいる梅の間に飛び込んで、
「龍馬はん、追っ手どす。逃げて!」
と伝え、そのまま寺田屋から薩摩藩邸まで走り、助けを求めます。
その間、梅の間では龍馬が捕縛者達を拳銃で迎え撃ちました。
こうして龍馬は左手に傷を負いますが何とか脱出に成功し、九死に一生を得ます。
なぁんてこと、文章で読むよりは映像を見たほうが手っ取り早いんで、
コンパクトにまとめられた龍馬の故郷である土佐のお酒の30秒CMをリンク。
(YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=-Lz1_SrjnEE
ということで、梅の間とその周辺の柱には、
この時に付いたのかもしれない『刀痕』『弾痕』と称される痕があります。
「刀痕はいずこ寺田屋宝柱」
「京へ来たなら一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本龍馬 昔白刃の裏ばしご」
と詠われる所以ですね。
ちなみに、
『寺田屋事件』は「薩摩藩士同士討ち」と「坂本龍馬襲撃」のどちらの事件も示すんだけど、
「龍馬襲撃」を示すことの方が多いみたい。
また『寺田屋騒動』は一般的に「薩摩藩士同士討ち」の方を示すんだけど、
「龍馬襲撃」を示すこともあり。
うーん、ややこしい。
なので『龍馬伝』36話のタイトル「寺田屋騒動」は別に間違いではないのだな。
ちなみに×2、
『新選組!』第34話にも「寺田屋大騒動」というタイトルの話があります。
だけど、この話はというと…、
新撰組局長・近藤勇の江戸に残してきた妻・つねが突然京にやって来て、
近藤が京で囲っていた妾・美雪太夫と寺田屋でバッタリ鉢合わせ、というコメディな内容。
両事件とはまったく関係がありません。
(YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=nDlceYNxuRU
(↑2006年霧島旅行時)
こうして『寺田屋事件』で九死に一生を得た龍馬は、
左手に受けた傷を癒すため、お龍さんを連れて薩摩藩領にある霧島の温泉へ湯治に向かいます。
そして傷が癒えると二人して霧島山に登り、山頂に刺さっている天逆鉾(あまのさかほこ)を引っこ抜いたり…。
これが日本で最初の新婚旅行といわれています。
『龍馬伝』SEASON3のピリオド、第38話「霧島の誓い」のエピソードですね。
さて、寺田屋を後にし、伏見の酒蔵が立ち並ぶエリアにやって来ました。
酒造りには大量の水が必要ですが、
伏見はかつて『伏水』とも書かれていた程、質の高い伏流水が豊富な地。
そして原材料である酒米・薪炭・樽材などが濠川を上下する十石船で運ばれてきました。
また『京の底冷え』と言われる厳しい気候が醸造に適した条件でもあり。
ということで昔から酒造りが盛んで、神戸・灘と並ぶ二大銘酒処として知られています。
まずは寺田屋に程近い、カッパカントリー黄桜記念館に入ってみることに。
酒蔵を改装した館内に入ってみると、展示室ではジオラマで昔の酒造りの工程や道具が紹介されています。
そして壁に貼られた歴代ポスターもなかなかに見所。
そしてライブラリーコーナーではなつかしのテレビCMがエンドレスで放映中。
「♪カッパッパー ルンパッパー カーッパ黄桜 カッパッパ。」
お馴染みだった歌を、ついついCMに合わせて口遊んじゃいます。
黄桜のイメージキャラクターといえば、カッパ。
ということで、館内には河童資料館もあります。
等身大の河童像をはじめ、河童の起源から歴史、日本各地に残る伝承、そして世界の河童について…
酒蔵にあるレベルを遥かに超えた様々な資料が、
かなりマジメに詳しくマニアックに展示してあり、一見の価値があります。
お次は月桂冠大倉記念館にやって来ました。入場料300円也。
ただし入場料は取るけど、あくまでも採算度外視の企業PRのための博物館。
なので入場記念として、お土産に一合缶の純米酒がもらえます。
観光バスでやって来る見学者には、酒蔵見学後にバス車中でチビチビやれるので、
嬉しいサービスだよなぁ。
やはり酒蔵を改装した館内には、実際に酒造りに使用されていた道具が
工程順に展示されています。
次の部屋では、樽、桶、壜、徳利、といったお酒を詰めていた入れ物や、
看板やラベル用の版木など、かつての広告に使われていた品々などが展示されています。
僕のお気に入りは何といってもこの一斗(十升)壜。
左にある通常の一升壜がとても小さく見えます。
この一斗壜からドクドクと、ドンブリかなんかにお酒をナミナミ注いでグビグビ呑むなんて、飲兵衛の夢だよなぁ。
なぁ~んて思ってたんだけど、団体客に説明する係員の説明を盗み聞きしていたら…
「この一斗壜、迫力ありますけど、残念ながらディスプレイ用です。
実際にこの壜にお酒を入れたら、重たくてもう誰も持ち上げることができません。」
だってさ。がっくし。
その他の展示物で目を引いたのは、三角棚の中に飾られていた、
『月桂冠』のバッタモンの『月佳冠』と『日桂冠』の壜。
『日桂冠』も何だかありがちだし、
『月桂冠(木+圭)』じゃなくて『月佳冠(イ+圭)』は、パっと見気が付かないよなー。
中国製や韓国製はコピー商品ばっかし、とか言うけど、
何のことはない。かつての日本もそうだった訳で。
そして一通り見学が終わると利き酒処で実際にお酒の試飲ができます。
今回試飲できたのは、大倉記念館限定販売品の
大吟醸生貯蔵酒、吟醸酒ザ・レトロ、プライムワインの3種類。
大吟醸はさすがに吟醸香プンプンでとっても(゜Д゜)ウマー。
伏見にはまだまだ見所が数多くあるけど、とりあえず今回行きたいなと思った寺田屋と酒蔵はコンプリート。
名古屋に帰るなら、京都駅から、新幹線かまたは名神ハイウェイバスに乗ることになるので、
そこで大倉記念館を出る時に窓口で、ここから京都駅までの行き方を聞いてみることに。
「あのう、ここから京都駅に行くなら、
中書島から京阪に乗って、東福寺でJRに乗り換えるのがいいですか?」
すると、
「そうですね。丹波橋で近鉄に乗り換えても行けますけどね。
というか、桃山御陵前まで歩いて行けば、近鉄だけで京都駅まで行けますよ。」
以前来たことあるんで、この辺りのおおよその土地勘はあって。
「なるほどー!それなら御香宮神社にもお参りに行けますね。」
そこで最後に御香宮神社にお参りしてから帰ることにして、桃山御陵前駅まで歩くことに。
ということで、京阪の線路と近鉄の線路に挟まれた通りを歩きました。
この道は京町通りといい、そのまま伏見街道となって京都・鴨川沿いにまで続いていて、
途中、魚三楼という老舗料亭の前を通ります。
ちょうどこの場所、幕末の大政奉還の後、
大坂から京に向かって進軍する幕府軍と、それを迎え撃つ薩長軍とが衝突した、
鳥羽伏見の戦いの激戦地でした。
魚三楼の前に布陣した新撰組が、銃砲で武装した薩摩藩軍へ白刃で斬り込んだといわれていて、
表の格子には当時の銃撃戦の弾痕が保存されています。
Youtubeに新撰組の鳥羽伏見の戦いの様子を描いた『壬生義士伝』の映像が落ちてました。
『壬生義士伝』(YouTube)
2003年公開映画版 https://www.youtube.com/watch?v=bcGL6NbdlRk
2002年テレビ東京新春ドラマ版 https://www.youtube.com/watch?v=HE8f6awCe80
その銃弾跡の横に設置された案内板には、鳥羽伏見の戦いについての説明が書いてあります。
その文章の末尾部分を抜粋してみると…
「この戦乱で伏見の街の南半分が戦災焼失、街は焼け野原となりましたが、
幸いにして、この建物は弾痕のみの被害で焼失を免れました。」
と書いてあります。
この辺りは激戦地だったんで、他の建物にももっと銃弾跡などが残っていてもよさそうなんだけど、
残っていないのは魚三楼以外の建物は戦災焼失してしまったからなんですね。
ちなみに、京都は『太平洋戦争』で大規模な空襲を受けませんでした。
そこで京都の人が「先の戦争で家が焼けた」という時の「戦」とは、
戦国時代の引き金となった『応仁の乱』を指す、という話がありますが、これはさすがに都市伝説らしい。
ただし『太平洋戦争』でないことは事実で、
幕末の『蛤御門の変』(京都中心部が焼失)か、この『鳥羽伏見の戦い』をいうんだそうな。
さて、ここで素朴な疑問が湧きます。
「あれ?伏見の南半分が焼失したけど、寺田屋は無傷だったん?」
そこで2008年になって、ある週刊誌でこんな特集記事が。
「現在の寺田屋って、幕末から現存したもの?再建したんでは?」
これについて、京都市は当初
「京都には古い神社仏閣とかがゴマンとあるんで、イチイチ民間の一建造物までかまってられない。」
というスタンスだったんだけど、
観光客も数多く訪れる歴史上重要な事件の舞台となった建物なので、調査することに。
そして、
・当時の鳥羽伏見の戦いを知らせる複数のかわら版の、市街地の焼失エリア内に寺田屋がある。
・明治39年に7代目寺田屋伊助(お登勢の養子)が、
「…惜哉戊辰ノ兵燹ニ罹リ家屋諸共焼失シ…(…惜しいけど戊辰の戦災で家屋共に焼失して…)」
という書類を残している。
・寺田屋庭にあった明治27年建立の「寺田屋騒動」記念碑に、「寺田屋遺址」の文字がある。
・現在の寺田屋の建物は明治38年に登記され、湯殿部分は明治41年に増築登記されたもの。
…などなど、いくつもの資料より、京都市の公式調査結果はというと…
「鳥羽伏見の戦いで焼失した後、
明治時代になって現在の建物が再建されたと考えれるのが妥当。」
と発表されました。
あれっ?明治に再建の建物なら、
天保年間拝領の大黒柱は?
刀痕は?
弾痕は?
あれは一体何だったの?
ということで、京都市観光企画課は、
「当時の建物でないのであれば、観光客に誤解を与えるので、展示方法などの是正を求めたい。」
とし、また霊山歴史館(龍馬の墓がある霊山護国神社の幕末歴史博物館)は、
「明治に再建された建物なのは間違いない。
ロマンはロマンとして残し、史実はしっかり説明して、地域の観光に繋げていくべきだ。」
とコメント。
これに対して寺田屋経営者側は
「寺田屋は何度も人手に渡っていて、確かなことはわかりません。
私どもが受け継いだのは1976年のことですが、その時から当時の建物だと言い伝えられていました。」
そして、戊辰戦争で焼失したという説については、
「一部が被災して、修繕したようですが、どの範囲に及んだかはわかりません。
しかし弾痕や刀痕、階段は当時のものだと認識しています。」
ただしこういう経緯があったもんで、寺田屋にはこの件を報じる新聞の切抜きが貼ってあり、
経営者側は一応これで「展示方法の是正」をしたつもりなんでしょう。ただし、
「あくまでも市の見解であり、今までの旅館の取組が全て否定されるものではない。」
という部分に赤線を引いて、反論しているつもりなんだろうなぁ。
をいをい。
「当時の建物だと思ってる」
のは勝手だけど、そんなんでよく「史跡」として営業してきたなー。
まぁ、ぶっちゃけて言っちゃえば、
『寺田屋騒動』で薩摩藩士達が大人数で斬り合ったはずなのに、一階に刀痕がないのは不思議だし、
お龍さんが入っていたはずの風呂桶に焚口がないのも不自然だし。
そして本当に龍馬がドンパチやった当時の建築物だったら、とっくに文化財の指定を受けていただろうし。
ということで、これら一連のドタバタは、『平成の寺田屋騒動』と呼ばれます。
「龍馬フリーク」な僕も、前回来た2004年の時は
「この部屋に龍馬が居たんだぁ!」
「このお風呂にお龍さんが入っていて、この階段を駆け上がったんだぁ!」
と信じていたんで、かなり盛り上がってたんだけど、
今回はこの『平成の寺田屋騒動』の顛末を知ってたので、かなりクールダウン。
ただ大河を契機に、「幕末浪漫(ロマン)を感じに」この寺田屋にやって来た、というわけで。
魚三楼の前を通り過ぎ、近鉄桃山御陵前駅へ。
駅から御香宮神社は歩いてすぐ。大きな赤い鳥居が見えます。
ただしこの道を進んでいっても神社はありません。鳥居の左の、木がこんもり繁っている所が神社になります。
ではどこに続いているかというと、
かつて豊臣秀吉が隠居のために建てた伏見城の大手門(正門)方向へ続いていて、
そういうわけでこの道は大手筋通りといいます。
伏見城はまたの名前を桃山城とも呼ばれるため、織田信長の居城だった安土城と合わせて、
信長と秀吉の天下だった一時期を、歴史区分的に『安土桃山時代』と呼ぶわけで。
(↑伏見桃山城と明治天皇陵:2004年旅行時)
ちなみに、この秀吉が建てた伏見城は関ヶ原の合戦の前哨戦で落城。
その後徳川家によって大阪城の豊臣家への抑えのために再建されるんだけど、豊臣家が滅亡すると廃城に。
そして大正時代、旧本丸部分に明治天皇陵が造られました。
なので駅名が桃山御陵前なのです。
ちなみに×2、今建っている伏見桃山城は、歴史的考証など全く無視して昭和に建てられたマッカなニセモノの城(シロ)。
「お城メグラー」としては、「見る価値なし」な城物、じゃなくて代物(シロモノ)。
なんだけど、前回旅行時には見に行っちゃてるな。
閑話休題。
これが御香宮神社の正門。とても立派です。
それもそのはず。
この門はその廃城になった伏見城の大手門が移築・再利用されたものなので。
さて御香宮神社ですが、創建年不詳の古社。
上古の時代は「御諸神社」と呼ばれていたんだけど、
平安時代に社殿を修造した時に境内から香りの良い清水が涌き出たので、
時の天皇から「御香宮」の名を賜って改名した、とも、
神功皇后を祀る筑前国(福岡県)「香椎宮」から御祭神を勧請したので、
いわれの神社の一文字ずつから採って
「御」+「香」+「宮」=「御香宮」
になった、とも謂われています。
(↑壹圓券・ウィキペディアより)
御祭神は神功皇后。
と、彼女の夫・仲哀天皇、息子・応神天皇など。
誰それ?と言うかもしれません。ごもっとも。
写真は明治12年発行の壹圓(一円)札。
彼女はこのように日本最初の紙幣の肖像に選ばれるくらい人気のある、皇室NO.1のヒロインでした。
ただし実在が疑問視される伝説の人として、戦後はほとんど紹介されることがありません。
彼女のエピソード(神話)を簡単に紹介すると…
仲哀天皇と神功皇后は、南九州の叛乱勢力・熊襲を討つべく筑前国・香椎宮に赴いていました。
そこで天皇は巫女=シャーマンである皇后に神の意志を占わせることに。すると、
「熊襲のような小国ではなく、西方にある豊かな国を攻めよ!」
とのお告げが。
西方の豊な国とは、朝鮮半島にある新羅のことだったんだけど、
都(近畿)からの感覚だと西だけど、北九州からだと北北西。なので
「西に国などないではないか。この嘘つきの神め!」
と仲哀天皇は神様に向かって暴言を吐き、そのため神罰が当たって死んでしまいます。
(↑大日本史略図会 第十五代神功皇后、月岡芳年画)
未亡人となった神功皇后は、「ヨヨヨ…」と泣き暮らし…ませんでした。
なんと忘れ形見を身ごもっていた皇后は、出産を遅らるためにお腹に石を当ててさらしで巻き、
その上に喪服ではなくて戦装束を着込んで、新羅に遠征。
すると新羅王は大変驚きかしこまり、降服を申し入れて朝貢を誓い、続いて高句麗・百済も朝貢を約束しました。
(うわー、めっちゃウソくせー!)
こうして三韓征伐を成し遂げた皇后は日本に凱旋し、無事に応神天皇を出産。
その後畿内の叛乱も鎮め、応神天皇が即位するまで政務を執った、といわれています。
彼女はこのような『神』のごとき戦『功』をあげられたので『神功』皇后とおくり名されました。
そしてこのようなエピソードから、女神様として
「安産」と「子育て」、また「勝負事」、そして「海上安全」転じて「交通安全」、
といったご利益がある、とされています。
また全国各地の数多くの神社で祀られている「八幡大神」とは、実は「応神天皇」のこと。
なので彼女は息子・「はちまんさま」と一緒にお祀りされていることも多いです。
そしてダンナ・仲哀天皇は、更にそのオマケとして。
このように彼女は大河の主役を張ってもおかしくない『スーパーヒロイン』だったんだけど、
ただしこれは「表の顔」。
実は「神社メグラー」として、
同じく彼女が祀られている大分県・宇佐神宮に行った時に詳しく調べたことがあって。
その調査結果によると…
BGM: https://www.youtube.com/watch?v=ntaOkwVpVf0 (YouTube)
彼女は、不倫相手と共謀して夫・仲哀天皇を殺し、都に残る継子の皇子達をだまし討ちし、
天皇家を乗っ取って愛人との子供を玉座に就かせた、『稀代の悪女』。
大河ではなく、火サスや土ワイに出てきてもおかしくない「裏の顔」を持っていました。
これらを含む詳細レポート、完成しているけど、
船サイトの旅日記の範疇を遥かに超えているので割愛します。
(読みたい人はリクエストしてください。)
とにもかくにも、彼女も僕と同じ「韓国帰り」。
ということで、帰国報告のお参りをするとしたら、これ以上にもってこいの神様はいないわけなのでして。
拝殿で参拝すると、そのすぐ横には、
神社の名前の謂われともなっている名水『御香水』が、今も滾々と湧き出ています。
現在でも無病息災・病気平慰の飲用/食用に、また茶道・書道の上達にと、
たいへんご利益がある霊水として持ち帰る人が後を絶たない、ということで、
ちょうどこの時もおじさんがペットボトルに水を汲んでいるところでした。
そこで僕も御香水を飲んでみることに。
うーん、さすがは酒処の名水だなぁ。なんとなくまろやかーな感じ。
(すみません。水については味オンチなんで、ホントはよく判ってない。)
この後境内の摂社などを廻って写真をもっといっぱい撮ろうと思ってたんだけど、かなり強いにわか雨が。
ということで、残念ながらこれにて今回の旅行はおしまい、と判断。
撤収して京都駅に向かうことに。
伏見にはこれ以外にも見所がいっぱい。
次回またゆっくり時間をとって来よーっと。
こうして今回の4泊4日、1車中泊・1船中泊の旅も無事フィニッシュ。
名神ハイウェイバスでの帰名となりました。
「さー、お次は年末年始だ!どうするべ?」
もう頭の中は、2ヵ月後の年末年始の旅に頭がぶっ飛んでいるはにーなのでありました。
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