(↑PART3で取り上げるネタとその関連事件)
さて、安徳天皇御陵を後にし、一路対馬の最北端を目指して車を走らせます。
そして途中尾崎集落にやって来ました。
対馬では2度の元寇で大虐殺が行われたため、深刻な労働者不足に。
そのため農業生産力・漁獲量も極端に低下してしまい、食料調達もままならず。
生き残った島民達に
「元憎し!高麗憎し!いつかリベンジ(復讐)してやる!」
という感情が起こるのは当然のことでした。
そしてなんとしてでも、不足する分の食料を調達しないと。
こうした状況の中で行われたのが『倭寇』。海賊です。
元寇後、鎌倉幕府/元/高麗は共に衰退の方向へ。
倭寇達を取り締まる勢力はなく、彼らは日本海・東シナ海を跋扈し、
朝鮮半島や大陸沿岸部の街や村を襲いました。
海賊行為は、復讐心を満足でき、また不足している食料を略奪により調達でき、
更に港の造船施設を定期的に襲うことにより再びの侵攻を予防でき、まさに一石三丁。
そしてこの尾崎集落はその倭寇の最大拠点だったといわれています。
倭寇に対抗して1419年、高麗王朝に取って代わった李朝による対馬侵攻が。
これを応永の外寇といいます。
(下記リンク『歴史地図2000』でカーソルを1400年くらいの所に合わせると、
当時の極東の状況が一目でわかります。)
http://www.ugoky.com/chizu/ugoky_chizu.swf
対馬領主が明へ出張している留守中を狙い、
227隻の軍船に乗り込んだ17285人もの精鋭軍がこの尾崎集落を奇襲し、焼き払いました。
対する対馬の留守番部隊は600人ほどの兵をかき集め、反撃。
してみると…朝鮮軍、弱かったぁ!
当時の朝鮮軍の鎧は動物の革製で、
武士達は日本刀で朝鮮軍兵士を鎧ごと簡単に斬り殺す事ができたんだけど、
それに対して朝鮮の剣では日本刀を防ぐ前提で作られていた日本の鎧を破る事ができなくて。
そのため…20倍以上の兵力差があったにもかかわらず、勝っちゃったのだ。
対馬側の戦死者はわずか20人、
対する朝鮮側の戦死者180人以上、負傷者2500人以上。だったといわれています。
で2009年、その応永の外寇の遺跡・痕跡・遺物が何か遺ってないかなぁ、
とこの尾崎集落にやってきたんだけど、
残念ながら今では単なる平和な一漁港で、何も遺ってなくて。
じゃぁ今回もなんでわざわざこの尾崎集落にやってきたのかというと…
それは、これ、尾崎漁港内に都々智(つつち)神社を見つけたから。
この神社、観光地でもなんでもありません。
全く有名でもありません。単なる尾崎集落の鎮守様。
それなのにお社のある小さな島に渡る参道と、鳥居。
なんだかとってもスゴイ。
神社メグラーとしては、かなりの掘り出し物を発見したって感じ。
でも日本一の神社密度を誇る対馬、これくらいの神社がゴロゴロしてるんだよね。凄いもんだ。
島とお社を対岸から撮ってみました。
ただし僕が今立っているこの陸地、どうもこれ平成16年に埋め立てられて公園化されたもので、
以前は左端に写ってるコンクリ橋もなく、満潮になると参道は消え、神社には渡れず。
なんて、もっと趣があったらしい…
それでも今でも大潮の時は参道は水没するようです。
http://www.genbu.net/data/tusima/tututi_title.htm
(↑神社巡りサイト『玄松子の記録』)
http://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=441377449256194&id=174896772570931
(↑水没した参道の写真)
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/62121882.html
(↑都々智神社を写した対馬最古の写真)
御祭神は、天狭手依姫命(あめのさでよりひめのみこと)、と、
表筒男命(うわつつのをのみこと)/中筒男命(なかつつのをのみこと)/
底筒男命(そこつつのをのみこと)。
誰それ?状態ですよね。ごもっとも。
天狭手依姫命は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の夫婦神が
国産み神話で産んだ大八島(日本列島)の一柱で、対馬そのものを神格化した女神様。
表筒男命/中筒男命/底筒男命は、
三柱セットで住吉三神として祀られる、大阪・住吉大社の主神で海の神様。
対馬の漁港に祀られるべき神様たちであります。
(ちなみに神様の数え方は、一人二人ではなくて、一柱二柱です。)
さて、対馬は日本一の神社密度を誇ります。
http://www2.odn.ne.jp/ottotto/memo/jinja.html
ところで上記リンクは全国の神社の分類。
全国で多い神社の順番は
1位:八幡様 2位:お伊勢さん 3位:天神様 4位:お稲荷様 5位:熊野様 6位:お諏訪様
という感じになってますけど、
http://nagasaki-jinjacho.or.jp/search/tushima.html
これは対馬にある主だった神社の一覧。
御祭神の欄を見ると、上記の本土の神様とは異なる神々ばかり祀られています。
本土で祀られていないわけではないけど、少数、少数、マイノリティ、な神様たち。
豊玉姫命と玉依姫命が多いんだけど、それは次の和多都美神社にて。
また対馬中を走り回って見かける小さな神社や祠には、
恵比須・住吉・宗像・金比羅・多久頭(龍神)・素盞鳴といった
航海の無事を祈る海神・風神が数多く祀られているような。
反面、耕作地の少なかった対馬では、
お伊勢さん(太陽神)、お稲荷様(農耕神)といった農業に関わる神様があまり祀られていないような。
一度、一週間ぐらい長逗留して、対馬の北から南まで全部の神社を巡り、
神社の分布MAPと御祭神の分類表を作ってみたいなぁ。
(ほんだったら韓国なんぞに渡らずに、ずっと対馬におったらえぇじゃん、
というツッコミは無しでお願いします。その2。)
さて、鳥居の横に奉納されているもの。それは砲弾。
メジャーや定規などは持っていなかったのでデジカメのストラップを巻きつけて測ってみると、
おおよそ直径30cmくらい。
対馬ガイドマップには28センチ榴弾砲と書かれてるけど、
形状から、ここ対馬沖で日本海海戦が戦われたこともあり、
聯合艦隊旗艦であった戦艦『三笠』の30cm主砲弾かなぁ、と思われ。
砲弾見ただけで艦オタとしてはちょっとテンションUP。
それにしてもさすが国境の島・防人の島、対馬。
何度も攻められた過去があるので、国防意識はとんでもなく高いです。
ちなみにこの写真は石川県にある『坂の上の雲』のロケで使われた戦艦『三笠』のロケセット。
この主砲が40口径30cm砲。
この連装砲塔が艦の前方と後方にあり、計4門装備。
ロケセットなんで前方の2門しかありませんけど。
ちなみにちなみに、この写真は神奈川県横須賀市に保存されている現物、記念艦『三笠』。
こちらでは映画『日本海大海戦 海ゆかば』のロケが行われました。
艦オタとしては、こういうのには目がなくて。
さて尾崎集落を後にし、車を走らせると、前方に切り立った山が。
ここが何かというと、金田城跡。
時代はまた吹っ飛んで飛鳥時代へ。
(下記リンク『歴史地図2000』でカーソルを650年くらいの所に合わせると、
当時の極東の状況が一目でわかります。)
http://www.ugoky.com/chizu/ugoky_chizu.swf
当時の朝鮮半島は、百済(くだら)/高句麗(こうくり)/新羅(しらぎ)
が互いに覇を競う三国時代。
(あ、有名な三国志は中国の魏・呉・蜀の三国。それとは時代も国も全然別物です。)
そしてその内の百済と倭(わ)=日本は同盟関係にありました。
それに対抗して新羅は唐と同盟を結びます。
その結果百済は両国の挟み撃ちにあって、660年に滅亡。
そこで倭は救援軍を編制して百済復興を試みるも、
白村江(はくすきのえ)の戦いにて大敗北を喫して百済復興軍は壊滅。
この白村江での大敗北は、太平洋戦争の敗戦、元寇、に並ぶ、
日本が外国の占領下に入る危険性が最も高かった事件の一つでした。
「このまま唐が倭へ侵攻してくるのではないか?」
そう考えた天智天皇は、海岸から程近い大阪・難波宮にあった都を
内陸の琵琶湖畔・近江大津京へ遷都。
そして東国の男子は『防人(さきもり)』として徴兵され、西国防衛のために連れていかれ。
また大宰府防衛のために水城が築かれ、
西国各所には朝鮮式の山城がいくつも築かれました。
この金田城もその山城の一つ。国内防衛の最前線として築かれました。
山頂部に石塁、山の周囲を取り巻くように石垣が築かれ、城壁が遺っているんだとか。
また日露戦争当時に再度要塞化され、砲台跡も遺っているんだとか。
残念ながら眺めたことあるだけで、まだお城そのものへは行ったことないんだよね。
登山口から山頂まで徒歩50分ほどらしいので、
お城メグラーとしては次回こそは訪れてみたいものだけど。
更に車を走らせていると、前方に真っ赤な橋が。
これが次のスポット、万関橋。
ところで対馬なんだけど、中央部にある浅芽湾は日本有数のリアス式海岸。
なので小島の数は100オーバー。
ところが対馬本島自体は行政的に上県(北部)と下県(南部)に分けられることもあるけど、
島としては一つ。
本州・北海道・九州・四国・択捉・国後・沖縄・佐渡・奄美
に次ぐ日本第10位の広さを持つ島です。
淡路島よりも大きいのだなぁ。
島が南北に繋がっている、ということはもちろん船は横切れないわけで。
でもリアス式海岸なので、一番陸地の細い地峡部分は幅が数100mほどしかなくて。
そこでかつては島の東西の入江で船を乗り換えたり、
小さな船ならその間を陸揚げして運んだりしたそうな。
その場所が大船越や小船越として地名にも残ってて。
でもそれではやはり不便ということで、江戸時代に大船越に水路が掘削されました。
だけどこの水路とっても浅く、潮が満ちた時だけにしか船の通行ができなくて。
さて明治時代になると、竹敷に水雷艇の基地が置かれました。(現在は海上自衛隊の基地。)
ここからは大口瀬戸を通って対馬海峡西水道(朝鮮海峡)へはすぐ出撃できるけど、
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡)へは当然出撃できません。
対馬の南端をぐるっと大回りすると、6・7時間はゆうにかかってしまい。
そこで1900年に対ロシア戦のため、
地名の語源が「越す」がなまったものとされる久須保(くすぼ)にある万関地峡に
水雷艇の出撃経路として、西水道側・浅芽湾と東水道側・三浦湾を結ぶ
久須保水道(現名:万関水道/万関瀬戸)が掘削されました。
なのでこの水路、対馬要塞を構成するれっきとした軍事施設なわけで。
掘削当時のスペックは水路幅25m・深さ2.5m。
現在は拡幅され、水路幅40m・深さ4m。
現在の橋は3代目。
水路幅65m・深さ6.5mの拡幅計画にも既に対応して造られてるんだそうな。
ちなみのこの写真は橋から三浦湾に繋がる東側を撮ったもの。
今より10m程東に架かっていたという2代目の橋の跡が今でもよく判ります。
潮の干満により渦潮ができるのを橋上から眺められるので、今では観光スポットにもなってます。
この頃になるとAKBのBGMにもちょっと飽きてきちゃってて。
ただ単に橋から水路を眺めているだけなのに、
いろんな特撮の出撃シーンでかかっていたワンダバが、頭の中でヘビーローテーション。
サンダーバード
https://www.youtube.com/watch?v=jAA3-80dwnk
科学特捜隊
https://www.youtube.com/watch?v=TMCfhbgJqss
ウルトラ警備隊
https://www.youtube.com/watch?v=UQoG16P_lh4
MAT(Monster Attack Team)
https://www.youtube.com/watch?v=4M7nOP_1M1A
こちらの写真は浅芽湾に繋がる西側を撮ったもの。
さてさて、実際に日本海海戦が行われたのは1905年(明治38年)5月27~28日。
ガイドブックなどには
「明治38年の日露戦争(日本海海戦)では、水雷艇隊が万関瀬戸を通って出撃し、
日本の勝利に貢献しました。」
もっと具体的なものだと
「5月27日早朝、「出港用意」がかかると、
第3艦隊の水雷艇16隻と竹敷要港部水雷艇12隻などが、
この万関瀬戸を通行して夜間の奇襲攻撃や迫撃を行い勝利に貢献した。」
と書かれていて。
『坂の上の雲』の主人公で聯合艦隊の参謀を務めた秋山真之中佐が後日書いた伝記によると、
「風強吹して波高かりしを以て、各水雷艇隊をして三浦湾に避泊せしめ」
と書いてあります。
そして27日早朝に大本営へ向けて発した報告電報の末尾の有名な一節、
「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
なんだけど、、
「 本日天気晴朗の為、我が聯合艦隊は敵艦隊撃滅に向け出撃可能。
なれども浪高く旧式・小型艦艇及び水雷艇は出撃不可の為、主力艦のみで出撃する。
また海が荒れていて計画していた連繋水雷作戦が行えないので、砲戦主体による戦闘を行う。」
の意味だったとされ。ということで、
多分水雷艇隊は竹敷基地を出撃してこの久須保水道を通って三浦湾まで進出したんだけど、
外海はあまりもの強風と波浪だったため、そのまま三浦湾にて待機、となったんでしょう。
ということで日本海海戦の第一合戦、
対馬東方で行われた主会戦である有名な対馬沖会戦には、水雷艇は参加しておらず。
ただし第一合戦後の、同日夜に対馬北東で行われた第二合戦は
我が軍:全駆逐艦隊・水雷艇隊 vs 敵:敗残艦隊 との戦い。
戦果は、
撃沈:戦艦3隻・装甲巡洋艦1隻
大破:戦艦1隻・駆逐艦1隻
捕獲:駆逐艦1隻
と赫々たるもの。
対する我が軍の被害は、高波により水雷艇3隻が沈没。
ただしこの水雷艇3隻の損失が、第一~第十合戦行われた全『日本海海戦』における全ての損失。
日本海海戦がパーフェクトゲームと謂われる所以です。
(日本海海戦についてはこの後でも取り上げます。)
http://www.sakanouenokumo.com/gundan_nihonkai.htm
(↑日本海海戦の回想)
このように対ロシア戦のためという軍事目的として掘削された万関水道だけど、
完成と同時に一般の船舶の運航も可能となり、現在ではこんな感じで漁船がのんびり行き来します。
地元・対馬への経済的・日常的な利便性への貢献と恩恵は計り知れず。
同じ軍事施設として造られながらも、
ただ朽ち果てていくだけの砲台と比べたら、民生としてその後も活用されている水路は全然幸せかな。
万関橋の次は小船越地区。
前述したように、大船越水道/万関水道が掘削されるまでは交通の要衝でした。
応永の外寇時、朝鮮軍もこの小船越を真っ先に占拠して、島の南北の交通を遮断してるし。
ということで要衝らしく、けっこう興味深い物件が集中して揃ってて。
小船越は西の浅茅湾から続く深浦と東の三浦湾から続く小船越湾に挟まれた地峡部。
その間の距離はわずか壱町参拾八間、とのこと。
1町=60間、なので98間。
1間をメートル換算すると1.8182mなので、わずか約178.2m。
高低差も5m足らずのほんのちょっとした丘なので、小さな船なら確かに何とか越せちゃうな。
そして大船は積荷を降ろし、船を乗り換えたそうな。
また7世紀から9世紀、遣唐使や遣新羅使は本土から東の浦にやってきて下船し、
西の浦に用意されていた別の船に乗り換えて目的地に向かったんだとか。
これは西の漕手(にしのこいで)。
東の浦(小船越浦)は集落側なので普通に漁港になって埋め立てられたりしてるけど、
集落反対側の西の浦は史跡として保存されています。
今でも何だかとっても趣深い感じがします。
かつてこの入江に大船が接岸し、人、物、そして文化が往来し、大変賑わっていたんだろうなぁ。
なんて想像すると、歴史オタとしてはなんだか胸がキュッとする感じがしちゃいます。
その小船越の隘路のすぐ隣の小高い岡の上に阿麻氐留(あまてる)神社があります。
『て』の『氐』の漢字は、『氏』+『_(アンダーライン)』。
倭国の玄関口と言っても過言ではなかったこの小船越を見下ろし、守護し給う神社。
神霊的な力による灯台のような役割を担っていたことでしょう。
さぞかし霊験灼かな神様が祀られていると思われ。
で、御祭神を調べてみると、それは天日神命(あめのひみたまのみこと)。
誰それ?状態ですよね。ごもっとも。僕も全然知らない神様。
対馬の古代豪族『対馬県直(あがたのあたい)』一族の祖神だそうだけど、詳細不明。
神名に『日』の字があるので、『太陽神』だろうとは思うけど。
だけどこんな重要な地に、「誰それ?」な神様は祀られないと思われ。
そして『太陽神』といったら、何といっても伊勢神宮・内宮に祀られている皇祖神の
天照大御神(あまてらすおおみかみ)だよね。
そしてでも、『阿麻氐留(あまてる)』と『天照(あまてらす)』が無関係だとは思われないし。
ただ「照る」だと自動詞、自分で勝手に照ってるだけだけど
「照らす」だと他動詞、「人々を」「この世の中を」といった目的語が伴います。
これは僕の考えなんだけど、天照大御神って実は人造の神様なんじゃないかと。
奈良時代、日本初の官製歴史書『日本書紀』を編纂するにあたり、
日本中の様々な氏族の持つ伝説が集められました。
そして各氏族が信仰する様々な太陽神の神話についても集められ、
個々の神様の色々なエピソード(化生・誓約・天の岩戸など)が継ぎ接ぎにされ、
さらに時の政治情勢も天孫降臨伝説として織り込まれ、
一柱の太陽神『天照大御神』が造られたのではないかと。
(天孫降臨:天照大御神(祖母神)の命を受け、孫神の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が
高天原(神の国)から葦原中国(人間世界)に降臨したという伝説。
持統天皇(祖母)→文武天皇(孫)への譲位を正当化するための先例とされた。)
詳細書くと長くなるんで書かないけど、もし興味がある方は直接連絡下さい。
とにもかくにも、本土の様々な太陽神が祀られていた神社は
御祭神が天照大御神に上書き保存されたんだけど、
でも耕作地が少なくて太陽神の需要がなかった(祀る神社がなかった)
辺境の地・対馬は忘れ去られ。
てたんだけど、でもでもこの小船越には太陽神を祀る神社があって、
偶然にも書き換えられずに残っちゃった、なんて。
ということで、天日神命は天照大御神に進化する前の古い神様ではないかと。
対馬で祀られている神様って、本土と違ってマイノリティな神様ばかり、って書いたけど、
こんな感じで、日本神話が体系化される前の古い神様が多く祀られているんではないかな。
神社メグラーとしてはとっても興味深い。
もう一つのスポットはというと、それは嶺南山梅林寺。
欽明天皇17年(538年)、百済の聖明王から欽明天皇に仏像、経典が献上されました。
その百済の使節団がこの対馬・小船越に渡海途中に寄港し、滞在。
その際に御堂を建てて仏像を仮安置した場所がここ、とされています。
ということで、なぁんとここ、
アポロ11号のアームストロング船長が月面に付けた足跡みたく、
日本に仏教が伝来した第一歩の場所であり、日本最古のお寺とも云えるのだなぁ。
うー、さすが文化の通り道、対馬であることよ。
ということで、本堂にも上がって仏様に手を合わせてきたけど、
ま、今では普通の田舎のお寺だったけどね。
ちなみにその時献上された仏像により、
崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が対立し、内乱(丁未の乱)が勃発。
そして蘇我氏が内乱に勝利した後、
聖徳太子によって仏教国家・日本が誕生することになります。
ちなみにちなみに、その仏像は紆余曲折を経て信州(長野県)に至り、
住職ですら目にすることのできない善光寺の御本尊で絶対秘仏の
『一光三尊阿弥陀如来』となった、という伝説もあり。
(7年に一度の御開帳でお姿を拝める『前立本尊』は、
鎌倉時代に御本尊の身代りとしてお姿を忠実に模鋳した像だそうな。)
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これを書いてる頃、ちょうど対馬の仏像問題で日韓で揉めてて。
この話題について、書こうか書くまいか迷って。
タイムリーだし。朝鮮と対馬の話だし。
でも書くと、悪意があるわけではないけど、韓国の理不尽さを糾弾する文調にはなっちゃうし。
でもでも朝鮮と対馬のタイムリーな話をスルーするのもどうかな、って感じだし…
事の始まりは2012年10月。
対馬の一の宮・海神神社に安置されていた
統一新羅時代8世紀に製作されて日本の重要文化財の指定を受けていた仏像と、
対馬・観音寺に安置されていた高麗王朝末期1330年に浮石寺で製作され
長崎県の有形文化財の指定を受けていた仏像、合わせて二体が、
韓国内で高く売れると目をつけた韓国人窃盗団に盗まれて。
で、この二体の仏像、福岡-博多の旅客船(フェリーかめりあ?)
にて韓国に搬入され。
ところが釜山税関から仏像の鑑定を依頼された釜山港文化財鑑定室は
あろうことか二体の仏像を「100年も経ていない偽造骨董品」と誤判定し、
仏像搬入を許可してしまい。
そして偽造骨董品だと思ってた仏像が、
実際は盗難に遭った日本の重要指定文化財だった気が付いたのは、
事件発生から2ヶ月余り経った後。
日本政府が二体の仏像の盗難事実を韓国政府に知らせ、
韓国警察に捜査を要求して文化財返還を要請したから。
これだけでもとんでもない国家的恥点なんだけど…
で、窃盗犯グループを逮捕し、二体の仏像を無事回収。
で、盗んだ物は元の持ち主に返すのが当たり前、
ここで日本に返せば全然問題はなかったんだけど…
李朝では儒教が重んじられたために仏教弾圧(崇儒廃仏)が行われ、
徹底的に寺院・仏像が破壊されたために、現在の韓国には古い仏像がほとんど遺ってなくて。
浮石寺もこの頃廃寺になっていて、盗まれた仏像にも傷があり。
対馬から盗まれたこの二体の仏像、
朝鮮人達に見向きもされなくなって打ち捨てられて次々と壊されていく仏像を、
李朝を訪れていた対馬の人々が見るに見かねて対馬に持ち帰って遷座させ、
拝んでいた可能性が高いと思われ。
ところが、韓国当局が仏像を回収してみると、
こうした理由から韓国内には古い仏像が遺ってないから、
当然のことながら韓国では国宝級の仏像。
なので還すのがもったいなくなっちゃって。そこで
「倭寇に略奪されたものかもしれないから、返さない。」
と言い出す始末。
そりゃあ確かに倭寇が持ち出した可能性もないともいえないけど、
仏像は食べられないからなー。可能性低し。
でも、
「還して欲しければ、正等に入手した物であることを証明せよ。」
てか。
をいをい、500年以上も前のことだぞ。
売買契約書みたいなものが残ってるわけないだろ。
「だったら日本に還せないな~。」
おい、韓国!ユネスコの文化財不法輸出入等禁止条約批准国だろ!
まかりなりにも文明国のやることか!
相手が日本でなくて、大英博物館にもちゃんと同じことが堂々と言えるのか?!
恥の上塗り×2。
そして更に。
現在の韓国・浮石寺の僧侶が、
「仏像が早く元の場所(浮石寺)に戻るのを願う。
と書いた手紙と、
代わりの仏像として10000W(約850円)のお土産用のマスコット人形を持って、
観音寺を訪れて。
んで、観音寺のお坊さんに無視されて会ってもらえなかったもんだから、逆ギレして。
恥の上塗り×3。
もう、全然マトモな論理じゃないな。
MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130228/kor13022813030002-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130324/crm13032406210000-n1.htm
韓流研究室
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2269.html
さてまた車を走らせていくと、前方に大鳥居が見えてきました。
お次のスポットは、僕が対馬に訪れると必ず行く、 和多都美(わたつみ)神社。
御祭神はというと、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)。
「誰それ?」
状態ですよね。たぶん。
彦火火出見命は別名を火遠理命(ほとうりのみこと)といい、
天照大御神の孫の瓊瓊杵命と、
大山祗神(おおやまずみのかみ)の娘の木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)との間にできた、
火照命(ほでりのみこと)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命の三兄弟の末弟で、
また、豊玉姫命は姉で、祀られてないけど玉依姫命(たまよりひめのみこと)は妹で、
二柱は大綿津見神(おおわたつみのかみ)の娘、なんだけど。
「あ゛ーっ、
長ったらしい漢字&うっとうしいひらがなのルビがふってある神様の名前ばっかりいっぱい出てきて、
もっとわけわからん!」
状態でしょうね。ごもっとも。
一応下記のリンク開くと関連する神様の家系図が書いてあります。
書いてあるからといって、見て、付いてこられるとは限らないけど、
がんばって付いてきておくれい。
50歳からの人生日記♪・全国でも唯一、海幸彦を祀る神社
http://blogs.yahoo.co.jp/bybsx306/7336857.html
ところで『海幸彦・山幸彦』の童話は解ります?
実は彦火火出見命って、主人公の山幸彦のことなんだけど。
「うーん、どんな童話だったかなぁ?」
知らない/忘れちゃってるという方は、
下記リンクに話が載ってるので、そちらを読んでいただけるとありがたい。
(下記2つは同じ話だけど、細かいエピソードが若干違ってます。)
はじかみ神主のぶろぐ・神話紙芝居「海幸彦 山幸彦」(挿絵多めで解りやすい)
http://ameblo.jp/hajikamijinja/entry-11290364109.html
神社人・海幸彦と山幸彦のおはなし(インパクトのある挿絵)
http://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=190
さて境内に行ってみると、韓国人観光客がうじゃらうじゃらと居て。
そこで彼らが撤収するまで、境内からほんのちょっと離れた位置にある、とあるスポットへ。
それは『玉の井』。
豊玉姫の侍女が井戸に水を汲みに行くと、そこには潮に流されてやって来た山幸彦が居て。
「キャー!姫様ー!井戸にイケメンの神様がいらっしゃいます!」
と、侍女が豊玉姫に報告し、姫も井戸に行ってみると…
4thSingle・『BINGO!』
https://www.youtube.com/watch?v=e4-l6ImzpSc
豊玉姫は一目で山幸彦に恋に落ちたのでした。
そしてこの井戸こそ、その時の玉の井だそうな。
確かに井戸には今も滾々と清水が湧き出ていて、満水状態。
うーむ、この井戸って海から10mちょっとくらいしか離れてないんだけど、
井戸の水面って、海水面より絶対高い位置にあるよなぁ。どうしてなんだろ?
井戸水を柄杓で掬ってみました。
とっても澄んだ水。
舐めてみると、全然美味しい水。
海からとっても近いのに、全然塩っぱくない。なんでなんだろ?
これは海辺に建てられている豊玉姫の像。
手にシンボルの(豊な)玉を持っています。
ちょっと服装の時代考証ゼロだけど。
また、作者はちょっと年配なのかな。
彼の目線からすれば若い娘のつもりだったんだろうけど、
一目惚れするようなキャピキャピな少女な感じではなくて、見た目の年齢はもっと上な感じ。
さてこれが和多都美神社の境内。
深い原生林の中にひっそりと佇む神社。
まさに聖域。この幽玄な感じがとってもステキです。
なのでこの和多都美神社、僕が対馬を訪れると必ずやって来る、皆勤賞な場所なのでして。
対馬でのメインエベントその1。
ちなみに、今日は2012年12月29日なんだけど、
実は2010年12月29日にも対馬経由で釜山に上陸していて。
まさに丸2年ぶりの訪問となりました。
こんな素晴しい場所なんだけど、この写真を撮るほんの数分前までは、
侘び寂びなど全く理解できない大勢の韓国人観光客でガヤ状態にあって。
この神社の特徴は、なんといっても鳥居。
一の鳥居と二の鳥居は海中にあって、満潮になれば水没します。
残念ながらこの時は干潮で、あまり風情はなかったけど。
そして一の鳥居・二の鳥居・三の鳥居・四の鳥居・五の鳥居が、拝殿前に一直線に並んでいるんです。
まるで空港の滑走路の進入灯のよう。
まさに海からやってくる神様を本殿にお迎え入れるって感じ。
こういう龍神参道(後述)って、いいなぁ。
すぐ隣の神話の里というキャンプ場から
和多都美神社を海から参拝するシーカヤックツアーをやっているらしい。
一度予約を入れて、海上から一直線に並んだ鳥居を見てみたいもんだ。
満潮になると水没するであろう干潟部分には、(ちょっと打ち寄せられたゴミが溜まっちゃってるけど、)
磯良という海神の墓と伝えられる磯良恵比須という鱗状の磐座(いわくら・信仰対象の岩石)があり、
それに結界を張って護るように、とても特徴的な鳥居・三本鳥居が立っています。
なぜ柱が三本あるのか?
謂れはよく解らず。
ピラミットパワーみたいなものと通じるものがあるのかな?
そしてこの三本鳥居、とっても珍しいもの。
僕がネットで調べたところによると、全国で八つしか現存していないみたい。
(他は東京・岐阜・奈良・京都2・徳島)
ところがところが、拝殿横にも磐座があり、こちらにも三本鳥居が。
つまりここ和多都美神社には、全国で八つしかない三本鳥居の内の二つが存在するのです。
この神社、只者ではありません。
まさにパワースポットと呼ぶにふさわしい。
さて、拝殿に上がらせてもらい、参拝。
で、写真を撮らせてもらったんだけど、今回なぜだかもの凄いブレブレ写真で。(霊的パワー?)
なのでこの写真は、資料写真として丸2年前の撮影のもの。
ま、中の様子はあまり変わっていなかったけど、
壁に掲げられていた東郷平八郎元帥の肖像画は外されていました。
壁には戦前に奉納されたと思われる軍艦の写真が掲げられていて。(この写真も2年前のもの)
左は妙高型重巡洋艦2番艦『那智』、右は長門型戦艦2番艦『陸奥』、の写真。
そして円形内に、帝國海軍の最高統帥権保持者である大元帥、
若かりし頃の軍服姿の昭和天皇の御真影。
この2隻に乗艦する海軍士官や水兵のご家族が、武運長久のために奉納でもしたのかな?
反対側の壁には『浦島太郎』の絵が奉納されていました。(この写真は今年のもの)
潮に流されてやってきて、宮殿でお姫様に歓待されて暮らす。
『海幸彦・山幸彦』の物語って、まさに『浦島太郎』の元ネタなんだろうな。
そして豊玉姫が出産する時に山幸彦に言った
「私は出産時に元の姿に戻らなければならないので、決して産屋の中を見ないでください。」
は、
「機を織っている間は、決して部屋を覗かないでください。」
『夕鶴(つるのおんがえし)』の元ネタかな?
そして山幸彦がこっそり産屋を覗くと、『わに』の姿に戻った豊玉姫がお産をしていて。
『いなばのしろうさぎ』の童話にも、『わに』は出てきますね。
でも、日本には野生の『鰐(わに)』はいません。(30万年位前にはいたらしいけど。)
そこでこの『わに』とは
「たぶん『鰐鮫(わにざめ)=獰猛な鮫』のことじゃないかな、日本近海にもサメなら棲んでるし。」
と苦しい言い訳Maybeがされています。
でも水中で泳ぎ回るサメが陸上でのた打ち回ってお産をするのか?
もちろん物語の中の1シーンではあるけど、両生類のワニなら、それよりは全然つじつまが合う。
そんでもって、この時に産まれたのが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)。
瓊瓊杵命-彦火火出見命(山幸彦)-鵜草葺不合命
この祖父・父親・孫の三柱を、日向三代といいます。
日向国とは現在の宮崎県のこと。
宮崎県やその隣・鹿児島県にはその名の通り、彼らをお祀りする神社がいくつもあります。
だけど、南九州と対馬、全然遠いよ。と思うでしょ。
さて、話を戻して。
ワニがどこに棲んでるのか?っていうと、それは亜熱帯地域の河川・湖沼・湿地。
日本にはいないけど、東南アジアやフィリピンや揚子江に生息しています。
ちなみに『金比羅さん』として信仰されている『金比羅大権現』も、
元々はといえばインド・ガンジス川に棲むワニがヒンドゥー教で『クンビーラ』として神格化され、
それが仏教に取り込まれて『宮比羅大将』となり、
それが更に日本渡ってきて神仏習合して『金比羅大権現』となった神様。
そして『いなばのしろうさぎ』。
白兎がワニ(サメ)を騙して川を渡る、という「動物の知恵比べ&川渡り」という伝説は、
東南アジアに広く見られるモチーフらしい。
ということで、これらを総合して僕が考えるに。
古代、これらワニの棲む地域に住んでた海人族の人々が船に乗り、黒潮(日本海流)に乗り、
南九州に漂着して一大勢力を築いたんだけど、
一部の人々は黒潮の支流・対馬海流にも乗って、この対馬に漂着したんじゃないかな。
これで南九州と対馬に同じ伝説があるのが説明できちゃう。
対馬って朝鮮半島とから日本列島へ文化を運ぶ中継地だっただけでなく、
東南アジアからも文化・影響を受けてたんだなぁ。
うーん、実にワールドワイド。
ちなみに『いなばのしろうさぎ』の因幡国は現在の鳥取県、
『浦島太郎』は丹後半島=京都府。
どちらも対馬海流の流域。
また黒潮本流から続く瀬戸内海の讃岐国(香川県)の島々にも『海幸彦・山幸彦』伝説はあって。
飛び飛びな感じだと思われるけど、潮の流れを遡って考えると、みんな繋がっているのだなぁ。
ということで×2、
ここ対馬には半島系海人族だけでなく、東南アジア系海人族もいて、
南九州・北九州・本州・対馬・朝鮮半島を股に掛けて交易し、
その獲得した富でこの地に竜宮城(和多都美神社)を築いたんだろうなぁ、と思われ。
縄文と古代文明を探求しよう!(黒潮の流域の画像)
http://web.joumon.jp.net/blog/2007/05/000223.html
さてさて、女神・豊玉姫は鰐だったし、浦島太郎に出てくる亀は式神(使い魔)だろうし、
今回出てこなかったけど蛇神をお祀りしている神社もあって。
鰐と亀と蛇、の神様。
その共通点はというと、生物学的に爬虫類に属する、ということ。
そして爬虫類にはもう一種、トカゲが属してますよね。
そして最大のトカゲはコモドオオトカゲ、またの名をコモドドラゴン。
そう。ドラゴン=龍に繋がって。
つまりはこれら全てが龍神、ということになります。
龍は手に玉を握っていますね。
豊玉姫/玉依姫の姉妹神も名前の中に玉が。
この辺も繋がるのかな。
龍神は水神。
なので龍神を祀る神社は、海・川・湖・沼・池などの畔に建てられていることが多く、
そして参道が直接それら水辺に繋がっているという特徴があります。
僕はこの参道のことを、勝手に『龍神参道』と呼んでいるんだけど。
五つの鳥居が一直線に海に向かって並んでいるここ和多都美神社は、
典型的な龍神参道なわけで。
さて拝殿を後にして。
拝殿横には、本殿の裏手の鬱蒼と生い茂る原生林の中に続く小道があって。
歩いていくと…
ちょっと小ぶりの鳥居があって…
その奥に豊玉姫の墳墓といわれる磐座があります。
うーん、雰囲気といい、霊的なパワーがハンパなし!
身体全体にヒシヒシと伝わってくる感じです。
この地で3年暮らした山幸彦は兄・海幸彦に釣り針を返すべく、『わに』に乗って日向に帰ります。
身籠っていた豊玉姫は彼を追い、彼の地で出産。
するも、正体を夫・山幸彦に見られてしまったため、息子を置いて竜宮城へ帰っていきます。
なのでこの地に彼女のお墓があるのは、ストーリー上つじつまが合ってるわけで。
ただし山幸彦の出身地が日向国(宮崎県)で、竜宮城がここ対馬だったとしたら。
潮に流されてやって来るためには、
宮崎から一度南下して鹿児島沿岸をぐるり半周してから東シナ海側に出て対馬海流に乗るか、
九州の東海岸を北上してから関門海峡を通って玄界灘を渡る、というルートになるんだけどね。
ま、そんな細かいことは、気にしない。気にしない。
こうして実家に帰ってきてしまった豊玉姫だけど、山幸彦への恋しい思いと我が子への気がかりから、
妹の玉依姫を彼の地に遣わし、産まれた子の世話を頼みます。
ちなみに姉の『豊玉姫』は『海幸彦・山幸彦』伝説のヒロインなんで固有名詞=個人名。
だけど妹の「玉依姫」はその他の登場人物の一人でしかないので
「玉のような可愛い姫」という一般名詞。少女Aとか通行人Bと同じ扱い
なので日本神話には彼女以外にも何柱もの他の「玉依姫」がいます。
さてさて、やがて成人した鵜草葺不合命は、自分の乳母で叔母の玉依姫を妻とし、4人の子を儲けます。
その第四皇子が神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)。
日向国から東征して、大和国(奈良県)橿原宮で即位した初代・神武天皇その人なのです。
今上天皇は神武天皇から数えて第125代目。
このように神話は現代と繋がっているのだなぁ、と、悠久の歴史に思いを馳せつつ…
墳墓前に置いてあるお賽銭籠の中を見ると、一気に対馬の現実に。
籠の中に入っていた硬貨を仕分けてみました。
左側が日本の硬貨、右側が韓国の硬貨。
円玉より、ウォン玉の方が圧倒的に多い。
ここ和多都美神社を訪れる観光客が、日本人よりも韓国人の方が全然多い、というのが一目瞭然。
対馬が韓国人観光客の落とすウォンの経済圏に呑みこまれてしまっているのを、如実に現しています。
この流れで和多都美神社を後にし、次のスポットへ…
行く前に。
拝殿前のおみくじの自動販売機に100円玉入れて、おみくじを引いてみました。
卦はというと…
なんと大吉!
というのは、うそだぴょ~ん。
この写真(つまり大吉だったの)、実は2年前のもの。
ということで仕切りなおして。
今年の卦は…
小吉。
うーむ。すっげー良くもないし、悪くもない。コメントがしづらい。
ただ縁談欄は
「神様の結びの御心により最上の縁が訪れます」
おー、マジかい!
ということで、絵馬とえんむすびの御守を購入。
別に彼女や奥さんを作ることに全面降伏をしているわけではなくて。
ただ単に神頼みぐらいしか自主的な努力をしていないだけで。
御守の御利益あって、なっちのような女神様と出会いたいな、とは思ってるんだけど。
お次のスポットは和多都美神社のすぐ隣にある烏帽子岳の山頂にある展望台。
神社詣でのついでに毎回寄るんで、ここも皆勤賞スポットなのだな。
この展望台からは、日本有数のリアス式海岸・浅芽湾を360°眼下にぐるっと見渡すことができるのだ。
島の緑と海の青がモザイク模様のように入り混じってるこんな風景、なかなかお目にかかれないもの。
まさに絶景。
今年ももちろん写真を撮ったんだけど、
実は2年前に撮った写真は更にサンシャワーも写ってて、もっと出来がよかったんで、
こちらの方を載せてます。
絶景を独り占めして気持ちよく展望台を降りると、
2台の観光バスが僕の車を取り囲むように停まっていて、(もう一台は写真の左側に存在)
大勢の韓国人観光客をワラワラと吐き出しているところでした。
なんにしても、僕とギリ入れ替わりのタイミングだったのだなぁ。よかった。
だけどこの2台のバス、韓国人観光客を吐き出した後も一向に動こうとせず、
そのお陰で、展望台直下のスペースから車が出せない。
「あのー、すみませんが、バス退けてもらわないと車出せないんだけど…」
と日本人運転手に言うと、
「五月蝿い!
お前のように遊んでるじゃねぇ。こっちは仕事でやってるんだ!」
と、なぜか怒鳴られ。
そりゃぁね、確かに僕は観光客ですよ。対馬に遊びに来たんですよ。
でーもね。その言い方はないんじゃないかい。
僕のような対馬大好きリピーター人間だったからまだいいようなものだけど、
一般の観光客だったら絶対「もう2度と対馬になんか来てやるもんか!」と思うぞ。
そして遠い本土から辺境の島まではるばるやって来るモノズキな観光客はますますいなくなるぞ。
いつも韓国人ばっかし乗せてるから、
思考ルーチンも韓国人のように目先のことだけを見るようになっちまったか。
その後しばらくして、ようやくその2台のバスがバックして出て行って…
近くのバスが置ける駐車場には計4台の観光バスが。
朝の上見坂といい、バスにはかなり大勢の韓国人観光客が乗っていて。
彼らの落とすウォンが対馬経済にはなくてはならぬものになってしまっているのを
如実に表している光景です。その2。
そしてそれを後押ししているのが、釜山-対馬の国際航路なんだよなぁ。
(釜山-対馬の航路についてはPART5にて詳しく。)
資料写真。これは3年前の2009年に撮影したもの。
走っていた道端に立てられていた看板。
「韓国人達よ。
政治的なことはガタガタ言わずに、ただただ対馬で観光してお金を落として帰っていってくれ。」
と言いたいんでしょう。
現在の対馬の、微妙で切実な立場を書き表していますね。
さてさて、実は和多都美神社へ行こうとして旧豊玉町・仁井の市街地を走っていた時、
小高い丘の上の石像が否応なしに目に入ってきてて。
そこでその石像へ行ってみると、
それは多分旧町役場だったであろう建物の裏の丘に建ってて。
どうもこの石像、『平成の天女』像というらしい。
旧豊玉町は、豊玉姫から名前を貰ったんでしょう。
なのでこの女神様も手には(豊な)玉を持っています。
うーむ、でもこの女神様、神社の海岸に佇んでいた豊玉姫の像と比べても、
キレイとも、カワイイとも、セクシーとも。
一言で言うと、ビミョー。
国籍、時代考証無視のドレスを身に纏っていらっしゃる。
でもどうせなんだから、もっともっと豊玉姫のイメージで造ればよかったのに。
ま、それだと平成時代ではなく古代なイメージになっちゃうし、
究極のお姿はラコステかジョーズになっちゃうんだけどね。
平成4年(1992年)3月というと、バブル景気が1991年2月まで、といわれているので、
まだその余韻覚めやらぬ頃。
DaiGoでない方の、「うぃっしゅ!」のDAIGOのじっちゃん・竹下登総理が
地方ふるさと創生基金1億円を各市町村にバラ撒いたのが
1988年(昭和63年)~1989年(平成元年)。
昭和天皇の御不例による自粛とか、大葬の礼とかで使い道の決定が遅れ、
そして決定して、像を発注して、製作して、完成して、設置して、
そしてそしてようやくお披露目になったのがちょうどこの時、だったのかな?
この像を建てて、どうしたかったのかな?
町民が喜ぶとも思えないし(石像作者と建築業者は喜んだだろうけど)、
この像を見に観光客が来るとは思えないし、
(「お前が見てるだろ」「ドキッ!いえいえ変なモノ見たさです」)
とにもかくにも、究極のハコモノ感がハンパないです。
「♪光久遠に栄よこの町~」
と『平成の天女』像建立時に謳ってるんだけど、
同じく「平成の」という冠が付いた2004年3月の「平成の大合併」により、
対馬にあった5町が合併して1つの対馬市となり。
ということで、謳われたこの豊玉町、久遠どころか、その後たった12年で消滅の憂き目に。
嗚呼、諸行無常…
ところで対馬を走っていると
「ヤマネコ飛び出し注意!」の看板を至る所で目にします。
「動物飛び出し注意」の看板って、鹿・猿・猪・狸なんかはよく見かけるような気がするけど、
「ヤマネコ飛び出し注意」はここ対馬と、沖縄の西表島(イリオモテヤマネコ)にしかないんじゃないかな。
(あ、ちなみに西表島にも行ったことがあったりして。)
さすがに個体数が激減している絶滅危惧種で、主として夜行性の野生のツシマヤマネコを
街角で見かけたことはないけれど。
でも、ツシマイエネコなら集落で必ず発見しますね。
ちなみにこの子は、対馬野生動物保護センターで展示されていた、
福岡市動物園生まれのツシマヤマネコ・福馬君。(2009年の撮影)
今回もセンターに行こうとしたんだけど、ここは動物園でなくてお役所。
この日は年末年始の休館日でやってなくて。残念。
ちなみにちなみに、2009年の時に聞いた話なんだけど。
ヤマネコとイエネコの雌雄がもし一緒に居ても、
子供を作ろうという欲求が沸かない位の種の違いがあるので、『ハーフ』は絶対生まれないんだとか。
日本人男性なら絶滅黒髪少女もいいけど、金髪女性や黒人女性もそそられるよね。
でも雌のチンパンジーには興奮しないよね。
ってくらいのレベルの差があるってことなんだろうな。
あ、そういえばこれも2009年の写真だけど、
ツシマヤマネコ見かけたことあったな。それも厳原港で。
がんばって営業活動していたな。
さて、烏帽子岳を出発したのが午後2時半頃。
残りの予定スポットはあと4ヶ所なんだけど、これらは全て島の北部に集中してて。
なので車の走行距離的には、これから夜の7時までに、
朝からこれまでとほぼ同距離を走り回らなきゃならない。
ということで、島の南部より更に悪い道路状況のところを更にガンガン飛ばして。
で、次に訪れたのは茂木浜。
日本の渚百選にも認定されている遠浅の海で、
無名ながらも400mもの砂浜が続く、対馬最大の天然の海水浴場です。
青い海と白い砂浜。
夏、ここでの海水浴はとっても気持ちよさそう…なんだけど、綺麗な砂浜を見に来たわけではなくて。
今から百年ちょっと前、この対馬東方の沖合いで、日本海海戦は戦われたのでした。
日清戦争の後、朝鮮(大韓帝国)の権益を巡り、帝政ロシアと大日本帝國は対立。
そして明治37年、日露戦争が勃発します。
日露戦争に至る状況と、日露戦争の戦況、戦後処理等は、
NHKドラマ『坂の上の雲』のDVDを借りてきて見てもらうのが一番いいんだけど、
下記リンクを見てもらうと、とってもよくまとまってます。
ただ情報量がハンパじゃないけどね。
日露戦争 ~前編~
https://www.youtube.com/watch?v=0aNiy8lV9jc
日露戦争 ~後編~
https://www.youtube.com/watch?v=OMnO_9NC5pc
艦オタなんで、日露戦争を海での戦いを中心にして簡単に説明すると。
ロシア海軍は日本海軍の3倍近い戦力を保有してたんだけど、国土が広いので
・極東アジア・太平洋艦隊、
・ヨーロッパ・バルト海艦隊(大西洋)
・ヨーロッパ・黒海艦隊(地中海)
の、大きく3つの艦隊に分散されていて。
でも太平洋艦隊だけで日本海軍と互角の戦力。
ただし太平洋艦隊は、遼東半島の大要塞・旅順を母港とする主力艦隊と
ウラジオストクを母港とする別働艦隊(浦塩巡洋艦隊)に分かれていて。
一度、両艦隊を合流させようと主力艦隊を旅順から出撃させるも、聯合艦隊に阻止されて失敗。
そこでロシア海軍の戦略としては、
浦塩巡洋艦隊を通商破壊戦に投入しつつ、主力艦隊は旅順港から出撃させずに港内に温存。
そして、遠くヨーロッパのバルト海艦隊(バルチック艦隊)を
第二・第三太平洋艦隊として再編して 旅順の第一太平洋艦隊と合流させ、
イッキに日本を叩きのめす、という計画を。
これに対抗して。
海軍は主力艦隊が旅順港から出てこないとみるや、浦塩巡洋艦隊を各個撃破。
そして陸軍が旅順要塞を総攻撃し、
軍港を見渡せる高台に大砲を設置して港内に停泊する艦艇を砲撃して沈める、という作戦に。
この高台の攻防こそ、映画にもなった『二百三高地』。
ちなみにこれはその二百三高地を奪取した後に据え付けられ、
港内の艦艇を砲撃した二十八糎(センチ)榴弾砲。
『坂の上の雲』の撮影に使われたレプリカです。
(主人公にして聯合艦隊の参謀・秋山真之中佐の出身地、愛媛県・伊予松山城に展示してあった物。)
こうして旅順要塞は陥落。
ロシア太平洋艦隊を無力化した聯合艦隊は、
ヨーロッパからはるばる大遠征してくるバルチック艦隊を待ち受けて迎え撃とうと。
対するバルチック艦隊は、日本の同盟国・英国が権益を持つスエズ運河を通してもらえなかったので、
超遠回りのアフリカ最南端・喜望峰を回らされるはめになり、半年以上にも及ぶ大遠征に。
そこでなんとしてでもウラジオストク軍港に辿り着き、充分な休息をとった後に対日決戦を行おうと。
そして、明治38年5月27日、
特務艦信濃丸による
「敵艦見ユ」
が通報され。
そしてそして、聯合艦隊から大本営に向けて
「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
が打電され。
そしてそしてそして、
「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」
聯合艦隊旗艦『三笠』のマストにZ旗が掲げられて。
そしてそしてそしてそして、
日本海海戦の第一合戦、有名な対馬沖会戦は始まりました。
聯合艦隊は捨て身の作戦、敵前大回頭(東郷ターン)に賭け、巧みな艦隊運用でこれを成功させます。
そして一般的には『丁字戦法(てい、漢字の『丁』、アルファベットの『T』ではない)』と言われてるけど、
実際には『イ』の字に近い斜め棒の陣形となって縦棒のバルチック艦隊の頭を抑えて。
そしてそして、この頃の戦艦は帆船時代の名残で舷側に副砲がズラッと並んでいたので、
先行同航戦にして敵艦隊の先頭を進む旗艦を全艦隊の主砲・副砲で集中砲撃し、
敵艦隊の指揮系統を破壊する作戦に撃って出て。
坂の上の雲 日本海海戦
https://www.youtube.com/watch?v=P5ze4-iFEL4
こうして対馬沖海戦は、
ロシア艦隊の旗艦の戦艦2隻を含む戦艦4隻と仮装巡洋艦3隻が撃沈。
それに対して我が聯合艦隊の損害は命中弾を受けたものの沈没艦ゼロ、という戦果に。
そして第一から第十合戦まで戦われた全日本海海戦の結果はというと…
ロシア・バルチック艦隊の被害は作戦参加艦艇38隻の内、
撃沈/沈没:21隻
拿捕:7隻
中立国へ遁入しての武装解除:7隻。
最終的にウラジオストクに到達できた艦は3隻のみ(巡洋艦1・駆逐艦2)
という燦々たる有様で。
対する我が聯合艦隊はというと、第二合戦にて高波に呑まれた水雷艇3隻が全ての被害で。
日本海海戦がパーフェクトゲームといわれる所以です。
日本海会戦について興味があってもっと詳しく知りたい人は、Wikipediaでも読んでくださいな。
Wikipedia・日本海海戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6
さて、第一合戦である対馬沖海戦に続き、
その夜に行われた追撃戦・第二合戦で大戦果が挙げられたことは前述の通り。
その撃沈されたロシア艦艇の中に、一等巡洋艦『アドミラル・ナヒモフ』もいました。
生き残った乗員達はこの茂木浜に救命ボートで上陸して。
なので『ロシア将兵上陸地』の記念碑が建てられています。
そしてもう一つ。
『義勇』『奉公』という碑の先端に刻まれた文字はかろうじて読めるんだけど、
痛みがかなり酷くて、その他は全く解らない謎の石碑もあって。
こんな感じで、対馬の海岸の各所には、日本海海戦に纏わる記念碑や慰霊碑がいっぱい建ってて。
で、沢山建っている記念碑の中で、なぜ今回茂木浜にやってきたかというと。
ここには記念碑だけでなく、他に『アドミラル・ナヒモフ』の主砲も置かれているからで。
バルチック艦隊がバルト海のリバウ港を出港する時、
『アドミラル・ナヒモフ』には艦隊の軍資金として帝政ロシア政府がパリとベルリンで募集した
7億フランと8億マルクの国債を換金した2000万ポンドもの英金貨が積み込まれていたとされ。
その価値、今の日本円にして8000億とも8兆とも。10倍の開きもあるし、実にアバウトだけど。
途中の燃料補給等で支払いに使って減っていたとは思うけど、
でももし本当に金塊や金貨が積まれていて、それが発見できたら…
昭和初期にも「金塊を引き揚げる」と称して投資を勧誘する会社が乱立、
いかにもな詐欺の甘言にだまされた被害者が続出したらしいんだけど…
ところが昭和40年代になって財宝探しが本格化。
そして昭和55年(1980年)、『アドミラル・ナヒモフ』の沈没地点が特定されると、
船繋がりだからか、日本のフィクサーで競艇の親分でSGレースの名前にもなっているS氏が
私財30億円を投じて引き揚げのスポンサーに名乗りを上げて。
結局金塊や金貨は引き揚げられなくて、
船のバランスを保つための鉛のインゴットが16個引き揚げられただけ、というのが公式見解だけど。
だけど宝探しに携わっていたダイバー達が、その後外車を乗り回すほど羽振りがよかった、
だから実は引き揚げられてたんじゃないか?なんて都市伝説も。
(ただ単に日当が良かったからなんじゃないの。)
ともかく、その財宝探しの時に引き揚げられた『アドミラル・ナヒモフ』の主砲が、
海戦が行われた東の海に向けて据え付けられています。
海底に70年以上も沈んでいて、引き揚げられてから30年以上も風雨にさらされているんで
かなり錆びたりして痛んじゃってるけど。
ちなみに東京お台場の船の科学館にも、『アドミラル・ナヒモフ』の主砲が屋外展示されているらしい。
船繋がりだからかなと思ったら、初代館長ってS氏じゃん。なるほど納得。
さー、ラストスパートだー。
次のスポットは舟志乃久頭神社。
舟志もみじ街道の終点近くにある、ちっぽけな神社。
観光地でも全くなく、ネットにも全く情報が載っていない、全く無名の神社。
2009年秋、紅葉のトンネルを潜りながら走っていて、偶然見つけた神社なのだ。
鬱蒼とした杜の中にひっそり佇むこじんまりした神社。
この雰囲気、和多都美神社にも引けを取らず。
看板によると、ここはかつて亀の甲羅で吉凶を占う亀木(きぼく)所だったそうな。
なるほど。パワースポット感がハンパなかったのも頷けるな。
御祭神は、神皇産霊神(かんむすびのかみ)と多久頭魂神(たぐづまのかみ)。
神皇産霊神は、天地開闢の時に
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかむすびのかみ)に次いで
高天原に出現した、造化三神(ぞうかさんしん)の一柱。
そして多久頭魂神の母神だそうな。
多久頭魂神は、対馬特有の神様で、天神地祇の総称で、天道信仰の対象。
…だそうなんだけど、僕は九頭龍(くずりゅう)大神だと思うんだよね。
理由は単純。
だって「くず」だし。「頭が多い」し。
その証拠に。
参道がそのまま隣を流れる小川に繋がっていて、僕が勝手に言うところの龍神参道になってて。
無名の神社ですらこの雰囲気だからなー。
対馬の神社ってハンパないです。
マジに一度ゆっくり時間をかけて、全対馬の神社を巡ってみたいなぁ。
港ガイド用に比田勝港ターミナルを訪れ、ちゃっちゃっと写真を撮り、
JR九州高速船窓口のお姉さんと取材を兼ねた世間話をして、
そしてやってきましたメインエベントその2、豊(とよ)砲台。
いやー、何とか暗くなるまでに辿り着いたな。
ここも僕の対馬の皆勤賞スポットなのでして。
さてこの豊砲台が建設された経緯はというと…
第一次世界大戦後、戦艦はますます巨大化・高速化・重武装化していき、
日本・アメリカ・イギリスで激しい建艦競争が展開されます。
当時の戦艦による全面戦争抑止効果は、
冷戦時代から現在にまで続く、核兵器による抑止効果に匹敵。
日本は対米戦のため、戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を主力とする八八艦隊構想を立ち上げるんだけど、
この建造費だけでも国家予算の3分の1、
維持費を含めた海軍予算はなんと国家予算の半分にまで膨れ上がり。
対するアメリカも155隻もの艦艇を3年で建造する計画を猛進しており、各国とも状況は同じ。
このままでは国を護るための戦艦を建造することによって財政が破綻して国が滅んでしまう、
という本末転倒な状況に陥ってしまい。
そこで日・米・英・仏・伊の5ヶ国にてワシントン海軍軍縮条約が結ばれました。
この条約によって新戦艦の建造禁止が決められ、各国とも戦艦の保有隻数が制限されました。
日本は艦齢の新しい現有艦8隻と、八八艦隊のうち完成していた戦艦『長門』『陸奥』、
計10隻の保有が認められました。
また建造中だった巡洋戦艦『天城』『赤城』は航空母艦に改造。
建造中だった戦艦『加賀』『土佐』と、保有していた旧式戦艦は廃艦処分、ということになりました。
(ただし『天城』は関東大震災によりドック内で大破してしまったためにそのまま廃艦処分となり、
代わりに『加賀』が空母に改造されることに。)
戦艦の新造が中止されたということは、搭載する主砲も必要なくなり、
完成してしまっていた砲身は使い道がなくなってしまった、ということで。そこで
https://www.youtube.com/watch?v=Y3mQJzxGgbM
この会議のつい十数年前の日本海海戦の舞台となった対馬海峡を護るため、
戦艦の主砲となるはずだった四十五口径四十糎(センチ)連装砲を転用して、
陸軍の海岸砲台であるここ対馬・豊砲台が築かれました。
また同様に、壱岐と釜山にも砲台が築かれました。
日本の陸海軍って仲が悪かったことで有名だけど、この時ばかりは珍しくタッグを組んでいるなぁ。
うんちくはこの辺にして、砲台内部に入ってみましょう。
まず入口には、対馬の観光地各所に設置してある音声ガイド付き案内板があります。
ボタンを押すと日本語/韓国語/英語でのスポットのガイダンスが流れる…はずなんだけど、
以前来た時はちゃんと動いたんだけど、メンテナンスが行き届いていないのか、
ボタンを押しても沈黙したまんま。
ただ案内板には砲塔全図イメージイラストとかつての砲塔写真が載せられていて、
砲台をイメージするには大変解りやすい。
砲台内部は地下にあるので中は真っ暗。
そこで入口の赤いボタンを押すと、砲台中の照明が点灯するしくみ。
…なんだけど、かつては100円玉を入れると30分間点灯、でした。
多分100円玉を持っていない韓国人観光客からのクレームがあって、対処したんだろうな。
なので「100円硬貨を入れると」と書かれていた部分がテープで消されています。
砲台に入ってすぐの壁に案内板が掲げてあります。
そしてまた黒塗りがされていて。
ちなみに黒塗りをしてあるところは、間違った/正確でない説明がしてあったからで。
何と書かれていたかというと、
「大正十年国際連盟軍縮条約により、戦艦『長門』が廃艦になり、その主砲を移管改造したもので…」
おいおい、国際連盟軍縮条約って何?ワシントン海軍軍縮条約だろ!
『長門』は廃艦になってないぞ!長らく聯合艦隊の旗艦だったぞ!
という僕らのような艦オタの指摘を受け、消されたと思われ。
ただ豊砲台の建設は最高の軍事機密だったので、今となっては資料が残ってなくて。
なので海軍から陸軍へ引き渡された砲塔は、
『土佐』の第一砲塔に予定されていた物が転用、という説、
保管されていた『土佐』用砲身が『長門』の改装時に載せ換えられ、
『長門』から降ろされた砲身が豊砲台に転用された、という説、
また『赤城』に予定されていた主砲の転用、という説、など諸説様々。
ということで「、『長門』の主砲を…」は、今となっては、正しいとも、正しくないとも。
なお対馬海峡の地図も掲げてあるんだけど、
主砲が流用された3ヶ所の砲台のうち、壱岐・黒崎要塞が書かれていないので、
参考として写真に書き加えてあります。(現地の地図にはありません。)
砲台の有効射程距離は約30km。
対馬海峡西水道(朝鮮海峡)、東水道(対馬海峡)、を通過しようとする艦船を
3ヶ所の砲台から確実に挟撃できます。
うーむ、鉄壁の護りだなぁ。
これが砲塔内部。
コンクリートの通路に点灯する裸電球。
実際に行ってみればかなりの近代要塞な感じなんだけと、
この写真だけ見ると、寂れた古い地下駐車場の通路の写真と変わらない、かも。
でも砲台の半分くらいは岩盤むき出し、穿っただけの荒々しい状態のまま。
いかにも地下要塞ってな感じ。
コンクリート壁が壊されているのは、戦後にGHQの解体班が武装解除(爆破)を試みた痕跡かな。
この砲台、爆撃にも耐えられるように地下室は2m以上の擁壁に護られていたとされ、
そしてあまりに堅牢だったので、ついには完全破壊を諦めたとされています。
ここは砲動力機室跡。
連装砲塔の重量は103トンもあり、それを水圧で稼動させていたらしい。
その水圧式蓄力機と百馬力石油エンジンが置かれていた部屋だそうな。
さぞかし当時としてはハイテクで、大きなデバイスだったんだろうな。
砲塔内部にはこんな小部屋がいくつも存在。
そして一番奥が砲塔下部部分。
この辺は照明が暗いので、フラッシュ撮影すると…
こんな感じ。コンクリートの擁壁が円形にラウンドしています。
この3mある擁壁の向こう側に出て…
見上げてみると、砲塔部分がぽっかり開いていて。
戦艦主砲の連装砲塔がいかに大きかったか、圧倒され、驚嘆するしかなくて。
ここ豊砲台に始めて来たのはの2004年GW、初めて対馬にやってきて、
初めて対馬から釜山へ渡航する時でした。
当時は対馬についての予備知識など全くなくて、あくまでの訪韓のついでの立ち寄り。
そしてその時は比田勝に前泊、昼過ぎの高速船で釜山へ、というスケジュールでした。
で、出航時間までの時間つぶしとして、
朝の数少ない通勤・通学用バスで最寄の観光スポットだった韓国展望所(後述)へ行き、
帰りはバスがないので、のんびり歩いて通り道にある立ち寄り温泉に寄ってから比田勝に戻る、
というつもりで。
そしてちょうどこの付近を歩いていた時に『豊砲台→』という看板を偶然見つけ、
「どうせちっぽけな砲台跡てたいしたものでもないだろうけど、時間潰しにはいいか。」
と何気なく寄ってみると、なんと予想に反して、戦艦主砲を転用した大要塞で。
艦オタの血が一気に沸騰して身震いした感覚を今でも覚えています。
その前日、和多都美神社に寄って神社メグラーの血も騒いだ直後。
この日以来、対馬大好き中年になってしまったのだなぁ。
さて、砲台のもう一つの出入り口、駐車場の奥の方に木のテーブルとベンチがあるんだけど、
その横から遊歩道が続いていて…
遊歩道を歩いていくと、砲塔上部に出られます。
上部にも木製の案内板があって…
ぽっかりと大穴が開いています。
ちなみにこの写真は広島・呉の大和ミュージアムに展示してある
豊砲台に転用された物と同じ、四十五口径四十糎砲の『陸奥』の主砲身。
この大穴の上に砲塔があって、この砲身が2本も生えていたのだなぁ。
改めて、うーん、デカイなぁ。
PART2の上見坂堡塁のところでも書いたように、
対馬要塞を構成する31ヶ所もの砲台は、日清・日露、そして太平洋戦争において
外敵に対して一度も実戦の火を噴くことはありませんでした。
これら砲台跡は、見学できるように整備された所、公園化された所、
そのままの姿を留めつつ森の中でひっそりと眠りについている所、
朽ち果てて自然に帰り痕跡がよく解らなくなった所、いろいろありますが、
日本が必然的に歩まざるをえなかった時代の貴重な遺跡。
この積み重ねがあって現在の平和国家となった日本があるのだなぁ。
一度時間をかけてじっくり回ってみたいものだ。
そして対馬には何度も来ているけど、壱岐は未上陸。
ペアの黒崎要塞にも行ってみたいものだ。
(↑『男たちの大和』ロケセット2006年)
(↑大和ミュージアムの1:10スケールの『大和』)
そして余談として、戦艦のその後なんだけど。
ワシントン海軍軍縮条約に続いてロンドン海軍軍縮条約も締結され、
戦艦は15年に渡って新造されることはありませんでした。
そして条約の失効後、満を持して新たに建造されたのが
46センチ砲を9門も装備する世界最強の戦艦『大和』『武蔵』でした。
ところがその戦艦の建造されなかった15年の間に、
布張り複葉機だった航空機は鋼鉄製の翼を持つようになり、日進月歩で進化していき。
そして太平洋戦争は皮肉なことに
巡洋戦艦・戦艦から航空母艦に改造された『赤城』『加賀』から飛び立った
航空機部隊がハワイ・真珠湾を攻撃することから始まります。
空母の護衛として出撃した巡洋戦艦を除き、
戦艦部隊は、来るべき決戦のために温存、というか、
空母ほど汎用性がないので最前線には派遣されず、もっぱら内地で訓練に明け暮れ。
戦艦が前線に引っ張り出されるのは、ミッドウェイ海戦にて日本の機動部隊の中核だった
『赤城』『加賀』といったの4隻もの空母が一度に撃沈されて
戦力が著しく低下してしまってから、その数合わせとして。
ところが真珠湾攻撃で日本軍自らが空母の有用性を実証してしまったため、
戦艦重視だったアメリカ軍も空母重視に方向転換。
空母や航空機を量産し、パイロットを大量育成して、日本軍を物量で圧倒。
結局太平洋戦争期間中、思い描いていた戦艦同士の砲撃戦はほとんど起こらず、
日本が保有していた戦艦・巡洋戦艦12隻のうち、砲撃戦による損失艦は2隻にすぎず。
その他の艦は、港に停泊中の謎の爆沈だったり、
潜水艦からの魚雷攻撃だったり、
待ち構えている敵の駆逐艦・水雷艇部隊への強行突入だったり、
航空機からの攻撃だったり、
油がなくなって動けなくなった港での空襲だったり。
終戦まで唯一残った『長門』は接収され、戦後原爆実験の標的艦となって沈められ。
世界最強の戦艦として誕生した『大和』はというと、
敵戦艦部隊との砲撃戦の機会もないまま
最期は味方戦闘機の上空掩護もない状況で沖縄へ片道特攻出撃し、
アメリカ航空機部隊の数次に渡る攻撃を受けて沈められてしまいます。
(これは映画『男たちの大和』の話。)
そしてそれから254年後、ガミラスの攻撃から地球を救うために宇宙戦艦に改造され、
宇宙の彼方イスカンダルへ旅立つことになります。
さて、ようやく最後のスポット韓国展望所へ。
しかし時刻はもう午後5時を過ぎてて。
いつもの感覚ならもうとっくに日が沈んでいてもおかしくないんだけど、
愛知と対馬の経度差で、日没時間が30分ほど遅いみたい。つまりロスタイム中。
(今日没時間を調べてみたら、名古屋16:49/韓国展望所ピンポイント17:20)
で、慌ててやってきたんで、ゲートをそのまま通過、写真を撮るのをすっかり忘れてたみたい。
そこで資料写真として2009年の物を。
(リピーターはこういうとき便利だなぁ。)
このゲート、釜山港国際旅客ターミナルのゲートをモデルにして造られているんだとか。
そういえば似てるなぁとは思ってたけど。
見晴らしのいい丘の上には、六角形の大陸風デザインの展望台があって。
建物の中には対馬藩と朝鮮との外交史のパネルとかがあったはずなんだけど、
時間切れで施錠されてしまっていたので、入れなくて。
展望台のすぐ横には『朝鮮國譯官使殉難之碑』があります。
江戸時代、徳川幕府は鎖国政策を採っていて、
正式な外交関係があったのは、長崎でオランダと清、そして対馬藩を通しての朝鮮、
この三ヶ国だけでした。
そして『朝鮮訳官使』と呼ばれた朝鮮の使節団が、対馬・厳原まで頻繁にやってきていて。
対馬・比田勝と朝鮮・釜山との最短距離はわずか50kmほど。
江戸時代にもなれば航海術もそれなりに発達していただろうから、
風さえよければ、朝に出港すればその日の内に到着、なんてことも不可能ではなかったと思われ。
それでも海が一度荒れてしまえば。
1703年、朝鮮訳官使を載せた船が、対馬を目前にして天候が急変したため、この沖合いで沈没。
対馬藩士4名を含む112名が帰らぬ人となった、という事故があって、その慰霊碑とのこと。
明日厳原から釜山へ船で渡る僕としては、ちょっと他人事じゃなくて。
沈没事故はないんだけど、高速船と鯨?との衝突で怪我人はちょくちょく出てるし。
ということで、一応手を合わせてきました。
展望台から見える風景を撮ってみました。
ここから釜山までは、直線距離にしてわずか49.5km。
秋から冬にかけての、天気がよくて空気が澄んでる日は、
水平線の向こうに釜山の街並みを望むことができるそうな。
夜になればもっと綺麗に夜景が見えるんだそうな。
でもね。
僕がここに来た次の日って、だいたい釜山に上陸してるんで(2009年の対馬旅行時を除いて)、
がんばって写真に収めよう!なんて気分には全くならないんだよね。
どうせ翌日になれば、否が応でも散々見ることになるんだし。
「じゃぁ来なくてもいいじゃん。」
そう言われちゃうと、それはそれ、ちょっと心残りというか…
目の前の島ににある建物は、航空自衛隊海栗島分屯基地のレーダー施設。
かつてここにも砲台が設置され、国土を護っていました。
現在では実際の砲台から電子の要塞には変わってたけど、
ここが国境の最前線であるという事実は全く変わってないのです。
こうして予定していた本日のスポット巡りはこれでコンプリート。
しかし時間はもう午後5時15分を過ぎてて。
レンタカーの返却予定時刻は午後7時。なのであと1時間45分しかないんだけど、
対馬はデカくて、目指す厳原市内はここから80kmも南。
高速もないクネクネな下道を、この時間で走り抜けるのって…
それに途中ガソリンスタンドに寄って満タン返却する、その時間も考慮しないと。
…なんて、考えてたって仕方なし。
車の進路を一路南に反転し、厳原に向かってGO!
車を大急ぎで走らせていると、通りすがりにとっても綺麗なイルミネーションがあって。
停まってる場合じゃないのに、急ブレーキかけて車を停めて、写真をパチリ。
がんばって車を飛ばしたんだけど、奇跡は間に合わなかったぁ。
結局車を返却できたのは、7時からちょっと遅れて7時12分のことでした。
それにしても。
12時間にも渡って、車を走らせっぱなし。
本日の走行距離、なんと311km。
一日でよくぞこれだけのスポットを走り回ったものだなぁ。我ながら感心。
ということで、PART3『7時12分の返却』 … レンタカーで対馬激走311km後編
がようやく終わりました。
この2日目、ボリュームが多かったんで、書き上げるのに時間かかったぁ!
前編・後編の2分割でなく、前中後編の3分割にするんだったかな。
でもまだ対馬からは脱出できず。
もう少しだけお付き合い下さい、と予告しつつ、
PART4へ、To be continued…
P.S.
ということで、PART3のタイトルは『7時12分の返却』。
ネタの元曲名は『7時12分の初恋』。
あっちゃんのラストコンサート・東京ドーム公演でも歌われた、名曲です。
でもこの曲を劇場公演で歌っていたユニットのオリメン(オリジナルメンバー)は、
もう誰もAKBに残っていないのだなぁ…
チームA・4th#4・『7時12分の初恋』
https://www.youtube.com/watch?v=-r6yaCWfcWE
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文章・写真共にはにーさんの著作です。