おはようございます。
今朝は携帯のアラームを6:50にセットし、起床。
できる限りの睡眠を取って、まだまだ眠たい目を擦りながら甲板に出てみると、まずまずの快晴。
実は数日前まではクリスマス大寒波でとっても寒かったんだけど、
その反動でちょうど気候も緩み、甲板に出てもそんなに寒くない。
で、ちょうど厳原港7:00発博多港行きジェットフォイルビーナスⅡが出港するところでした。
そして、一度上げられていたタラップも下ろされました。
さて、対馬に来るのはこれで4回目。
韓国行き数回目のまだ初期の頃、博多⇔釜山をビートルで往復したことがあるんだけど、
船窓から対馬の島影を見て、その時に
「今度対馬から韓国に渡ってみたいなぁ。」
と思ったのが最初。
それから対馬経由で韓国上陸すること2回、そして今回が3回目。
だけど対馬に寄り道するだけでは限られた場所しか行けないんで、
あとの1回は通過地点としてではなく、目的地としての対馬。
2009年秋、セントレア⇔福岡空港⇔対馬やまねこ空港の乗り継ぎの
ANAの旅割(28日前迄購入の格安チケット)利用でやって来て、
レンタカーを3日ほど借りて、対馬全島を思う存分走り廻りました。
ということで、4回目の対馬上陸で~ぃ。
フェリーから下船すると
「おはようございます。」
と、僕を待っていてくれた人が。
誰かというと、実は昨日の内に電話で予約しておいたレンタカー屋のお兄さん。
なんとフェリー下船時刻に合わせ、早朝7:00に港まで車を持ってきてくれたのだ。
なんともありがたいサービスなこと。
ロビーで手続きを済ませ、料金を現金で支払い、車体の傷確認をして、本日の足を確保。
対馬島内には鉄道はなく、バス路線もあることはあるけど、
効率的に観光地巡りをするなら、やはりレンタカーは必要不可欠。
ということでこれからレンタカー返却予定時間の19:00までの約12時間、
対馬全島を南から北から走り廻ることになります。
対馬とは縁もゆかりもない愛知県民なんだけど、
数年前に一度走り廻っているので、対馬のおおよその地理はわかってて。
それに昨夜は観光MAPで廻るスポットの確認と走行ルートのシミュレーションもしたし。
ただし今回は『観光地巡り』というより、
過去の旅で観光したお気に入りの場所に行っての『撮影移動』に近いです。
実はこの日、レンタカー返却時の走行距離はなんとまぁ、311km!
高速道路のない対馬でよくぞ走ったもんだ。というか、走りっぱなし。
通常の観光ではこれから紹介するスポットの数、1日で廻れませんので、そこんとこよろしく。
レンタカーを借りてまず最初にやったことは、本日のBGMのセット。
幸いなことにナビにはDVDプレイヤー機能が付いてたんで、持参したAKBコンサートDVDを挿入。
ちなみに今回、僕のDVDライブラリからアトランダムに選んで持ってきたのは、
『AKBがやって来た!!チームB in Zep名古屋 2010年夏』と、
『業務連絡。頼むぞ、片山部長!in さいたまスーパーアリーナ 2012年春(7枚組)』。
それにしても、なんということでしょう。
2年前の僕は : ブックオフで聴いたこともなかった中古CDを購入
Two years later : 家からお気に入りのDVDを持参
見事にビフォーアフターしているなぁ。
そんでもって、チームBのディスクをセット。
このディスクにはチームB・5th『シアターの女神』公演が収録されていて、
神推し・なっち、二推し・なっちゃん、三推し・ゆったん、が揃い踏み。
だったんだけど、でも、もう3人ともAKBにはいないのだなぁ…。寂しい…。
サイドブレーキ引かないと映像は映らなくて、走行中は音声のみ。
なんだけど、僕の一番聴き慣れたB5公演、
歌詞もMIXも完璧に覚えてて空で歌えるんで、全然影響なし。
あー!よっしゃいくぞー!
タイガー、ファイヤー、サイバー、ファイバー、
ダイバー、バイバー、ジャージャー!
朝っぱらからMIX叫んで、テンションはもうMAX。
さて、スポット巡りの前に。
余所者の僕が言うのもなんだけど、皆さんは対馬のこと、どれだけ知ってます?
対馬という島、日本で一番離島の多い長崎県の一離島、なんだけど、
朝鮮半島と日本のちょうど真ん中に位置する、地政学的にはとても重要な島。
ただ単に本土から遠いだけの離島とは全く違います。
大陸・半島との歴史・文化の貴重な橋渡しとしての対馬。
その一方国境の島として何度も攻めらた過去を持つ対馬。
そのため守りのための城や要塞が築かれた、防人(さきもり)の島・対馬。
逆に時には倭寇や逆侵攻の拠点ともなった対馬。
日本一神社密度が濃く、本土とは異なる神々を崇め、古よりの独特の信仰を伝える神の島・対馬。
京(みやこ)から遠く離れた辺境の島としての対馬。
これらのエッセンスが絶妙に織り込まれて、対馬という島が形成されているのです。
時刻表系旅人以外にも、歴史オタ・神社オタ・城オタ・艦オタなどを自称する僕には、
おもちゃ箱/宝石箱をひっくり返したような、とっても興味深くてドはまりした島・対馬。
僕のつたない文章で、対馬の魅力が少しでも解ってもらえればいいんだけど。
ただし温泉メグラーとしては、対馬全島では5ヶ所の温泉があるんだけど、
今日は立ち寄ってる時間がなくて全く紹介できず。それは全くもって残念。
さてまずは車を北に。最初にやってきたのは、
峠道からちょっと逸れた道を走っていくとある、綺麗に整備された、上見坂(かみざか)公園。
古来から一望千里の絶景といわれる所だけあって、
標高358mの展望台からは日本でも有数のリアス式海岸や対馬の山々が一望できます。
前回対馬旅行した時も、ここに朝イチにやって来ました。
すると、僕の姿に驚いた野生の鹿の群れが、
「キュイーン、キュイーン」
と啼きながら、すぐ近くを駆け抜けていって。
今回もチョッピリそれを期待してました。
またこの清清しい景色と静寂さを独り占めしながら、コンビニで買ったおにぎりで腹ごしらえをしよう、
なんても思ってました。
だけど今回は、残念ながらかなわず。
というか、全くその反対の状況に。
車が駐車場に着くと、もう先客がいて。
それも朝早くから観光地巡りをしている大勢の韓国人観光客を載せた観光バスが2台も。
実は写真のフレームからは一生懸命オミットしてるんだけど、
展望台から写真を撮る僕の周り、韓国人観光客でごった返してて、
まるで昨夜のフェリーちくしの対馬行き2等大部屋と同じような状態。
静寂な世界を期待して行ったのに、辺りは大声の韓国語が飛び交う喧々囂々な世界。
「ここは本当に日本国内かい?いつの間に韓国に来ちまったか?」
なんて思ってしまったほど。
韓国人観光客達が訪れる観光地と、僕のお気に入りスポットは、当たり前だけどかなり重複。
なので今日はこれから韓国人観光客とのスポット争いを何度も体感することになります。
さて、平安時代から鎌倉時代中期まで、対馬国の在庁官人(支配者)は阿比留氏、
東国から防人として渡った一族の子孫でした。
現在なら阿比留といったらSKE・チームKⅡのりぃちゃんなんだけど、この阿比留氏、ちょっと謎の氏族。
なんと、『阿比留文字』という神代文字を持っていたのです。
…という話をしておいて、まだ韓国に着いてもいないのに、話はハングルへと長距離ワープ。
歴代の朝鮮王朝は中国の柵封国(属国)。
李朝においても、話し言葉は韓国語でも、公用文字は『漢字(表意文字)』・記述は漢文でした。
で、その辺の詳細は
『韓国東海岸北上の旅 ’09夏 その2の1 釜山観光編』
で1度説明しているんでそちらを読んで欲しいんだけど、
「愚民どもにも文字を!」
と血迷った世宗大王(セジョンデワン)によって、『ハングル(訓民正音)』が1446年に制定されました。
ということでこのハングル、自然発生した文字ではなく、
韓国語を表音通りに記述するために新たに創製された文字です。
上記はハングルの反切表(パンジョルピョ)、文字の一覧表。
通常、韓国語の本などに載っているのは平音(子音)/単母音の反切表。
ところがこれは平音・激音・濃音/単母音・複合母音のフルヴァージョン。力作です。
あまりもの文字の多さにちょっと酔って、目がチカチカ・頭がクラクラしちゃいますけどね。
ここでハングルの構成について。
ハングルって基本としては
「子音+母音」
という、ローマ字のように子音字母(記号)と母音字母の組み合わせによって
1文字が形成されています。
ただし文字によっては、母音の位置が右だったり右下だったり下だったりします。
また、例えば『서울(ソウル)』のように、
子音+母音 の下に、もう一つ(または2つ)
子音 がくる
パッチムというルールがあります。
この他にもちょっとめんどくさいルールがいくつかありますが、
でも、ハングルって基本はローマ字の延長線上。
子音を覚え、母音を覚えれば、パッチムも含めてあとはそれらの組み合わせ。
覚える気になれば、実は2週間で街名・駅名ぐらいは読めるようになっちゃいます。
これらを踏まえて。
下記は、旅行ガイドブックの巻末などに載っている、日本語の五十音をハングルで書き表したもの。
(濁音行は今回省略。)
(↑ハングルでの五十音順)
(↑阿比留文字での五十音順
一方日本の文字事情はというと、
漢字が導入される以前には日本に独自の文字はなく、
そこで仕方なく漢字の『音』だけを借りた万葉仮名にて日本語を記述した、というのが定説です。
ところが非公認だけど、日本各地には漢字が日本に入ってくる以前から
神道や卜占で使われていたとされる神代文字というのが複数あって、
その内の一つが対馬・阿比留氏に伝わる阿比留文字と呼ばれるものでした。
それがどんなものだったかというと………上記。
ネットで落ちている情報を基に、無理くり阿比留文字の一覧表を作ってみました。
阿比留文字も表音文字。
「子音+母音」の字母の組み合わせで文字が構成されています。
そして…ハングルの五十音表と比べてみると…
・母音字母が必ず右にある。
・「ア段:ㅏ」「イ段:ㅣ」「ウ段ㅜ」「オ段:ㅗ」はハングルと同じ母音字母で表す。
「エ段」はハングル『ㅔ』に対し縦棒が1本少ない『ㅓ』で表す。(ハングルでは『ㅓ』は『ㅗ』と同じ「オ」)
・「ア行:ㅇ」「カ行:ㄱ」「サ行:ㅅ」「タ行:ㄷ」「ナ行:ㄴ」「マ行:ㅁ」
はハングルと同じ子音字母で表す。
一部子音字母が独自の行がある。(ハ行:『V』/『ㅎ』、ラ行:『コ』/『ㄹ』)
・ヤ行は独自の子音字母『I』、ハングルではア行(『ㅇ』)内の単母音「ヤ『ㅑ』」/「ユ『ㅠ』」/「ヨ『ㅛ』」。
・『ワ」』は『ア』と同じ表記(?)、ハングルでは複合母音『와』。
・パッチムのルールは無い。
なんて若干の違いはあるけど、全体的に見ればほとんどハングルと変わりなし、というかそのもの!
全く同じ文字もあるし、パッと見では区別がつきません。
ところがところがこの神代文字である阿比留文字、
漢字導入以前に日本に文字はなかった、という大前提の定説を
学会が金科玉条の如く守っているため、
ハングル制定以前に阿比留文字で書かれて奉納された神札が古い神社に残っていたり、
古い石碑などに阿比留文字が刻まれていたり、
といった物的証拠がそれなりの数存在しているんだけど、それら全てはことごとく無視され、
現在では阿比留文字がハングルを基に模倣・捏造された物、ということにされています。
氷室と布袋がAKBの『否定のレクイエム』・『アイスのくちづけ』・no3bの『キリギリス人』を聴いてから、
BOOWYの名曲『Marionette』・『CLOUDY HEART』を書いたってか?
本当に学説どおり、ハングルがオリジナルで阿比留文字がコピーなら、
・ハングル制定以前に神社に奉納された神札や古い石碑って何?
・ハングル制定時やそれ以降、阿比留氏はもう既に領主でもなんでもなく。
なのに焚書もされて400年間も忘れ去られていたハングルをどこでどうやって入手?
・朝鮮と交流の深い対馬で、なぜハングルを基に神代文字を捏造する必要が?
・なぜこれまで漢字という表意文字を使っていた朝鮮の学者達が、
ハングルという表音文字を、何の手本もなしに超短期間で新たにゼロから創製し、制定できたのか?
・ハングルには阿比留文字にはないパッチムがあり、こちらの方が文字としては進化しているのでは?
阿比留文字はハングルを模倣する時にわざわざパッチムを無視?
なんてことが説明できないか、とってもしにくいなー、と。
だけど、阿比留文字が先でハングルが後なら、上記疑問点が全て説明できちゃうなー、と。
チームK・5th#3・『否定のレクイエム』(2009)
https://www.youtube.com/watch?v=oCbIhnpsNnE
BOOWY・『Marionette』(1987)
http://v.youku.com/v_show/id_XMTA3MzI3NDY0.html
22thSingule・Type-B・C/W・『アイスのくちづけ』(2011)
https://www.youtube.com/watch?v=AUU2NsfKNsI
ノースリーブス・9thSingle・『キリギリス人』(2013)
http://v.youku.com/v_show/id_XNDkzMjQ0NDgw.html
BOOWY・『CLOUDY HEART』(1985)
https://www.youtube.com/watch?v=KpyI2tXmA04
さて、話を対馬に戻して。
確かにこの上見坂公園、とっても風景のよい公園ですが、
別にただ単に風景を眺めるためだけに来たわけではありません。
まずここ上見坂は古戦場でもあります。
前述した対馬のかつての支配者・阿比留氏は、
当時日本と正式な国交のなかった高麗との貿易をしてたんだけど、
大宰府からそのことを咎められたのに従わなかったので、
大宰府から派遣された宗重尚(そう しげひさ)の軍勢と
鎌倉時代中期の1246年にこの地で戦い、征討されてしまいます。
ま、古戦場としての遺跡・遺物は特になにもないんだけどね。
宗氏はこの重尚を初代とし、
鎌倉→室町→戦国→江戸時代まで対馬の領主であり続けます。
そして明治維新後は華族となり、伯爵に列せられて。
公園の展望台のすぐ横の芝生には詩碑が建っていて、
三十七代目当主にして詩人の宗武志(そう たけゆき)伯爵の詩が刻まれています。
先祖が支配の礎を築くことになった古戦場跡に、後裔の当主の詩碑。
なんだか悠久の歴史が折り重なっていくのって、歴史ヲタとして、良いなぁ、と思ふ。
対馬を中心にした世界地図という発想。
日韓の真ん中に位置する対馬領主として、両国の歴史に翻弄された宗氏。
そしてその後裔として、自らの人生も日韓の狭間に翻弄された宗武志伯爵。
こんな詩は彼じゃなきゃ詠めないだろうなぁ。
この対馬領主宗氏、宗武志伯爵のエピソード、
予定では対馬にいる内のPart4までちょくちょく出てくると思うんで、そこんところよろしく。
で、上見坂には、別に風景と詩碑を眺めに来たわけではありません。
ベンチに座っておにぎりを食べていると、
散策タイムがようやく終わったらしく、韓国人観光客達は三々五々とバスへ戻っていって。
そこで頃合を見計らい、駐車場から展望台とは反対側の森の方へ。
この森の中へと続く遊歩道の奥に真の目的地があるのです。
それが何かというと…それは上見坂堡塁(ほうるい)跡。
幕末、250年にも渡る鎖国が黒船来航により崩れ去り、
日本が泰平の世から一転して世界史の荒波に呑み込まれた頃、
世界は弱肉強食の帝国主義の真っ只中。
極東の小国・日本の四方は既に西洋列強諸国によって囲まれていました。
そして対馬から目と鼻の先、東シナ海・日本海を越えた対岸には、
衰えたといえどもまだまだ大国だった清国と、
『ウラジオストク(東方を征服せよ)』と名付けられた街を拠点にして
極東に覇を唱えようとしていた超大国・帝政ロシアがありました。
打倒・徳川幕府の戊辰戦争に勝利し、不平士族の叛乱である西南戦争を鎮圧して、
ようやく国内政権を安定させた明治新政府は、
対馬海峡の真ん中に浮かぶ地勢学上大変重要な島・対馬の各所に
外敵から国土を防衛するための大小の砲台を構築。
全島に渡って『対馬要塞』が形成されました。
この上見坂堡塁も対馬要塞を構成する砲台群の一つ。
現在では展望台があるくらいなので、砲台を設置するにはもってこいの位置。
そこで日清戦争後、増大するロシアの脅威に対抗するために築かれました。
そしていざ対馬が決戦の舞台となり、
行政中心地・厳原の沖合いにロシアの上陸用舟艇が押し寄せてくるようなことになれば、
配備された口径15糎(センチ)加農(カノン)砲4門にて敵を要撃する手筈となっていました。
そしてもし敵に上陸を許してしまったら、
ここに籠もって敵を撃退する、最終防衛地点となる筈でした。
結局、日露戦争、そして太平洋戦争の戦時中、
この堡塁に配備された砲が外敵に対して実戦の火を噴くことはなかったんだけど。
それにしても。
既に戦後70年近く、この堡塁跡は放置されたまま。
なので砲座跡や兵舎跡の屋上からは立派な大木が生えて、
近代兵器が自然に還っていっています。
前回来た時はこの付近を野生の鹿の群れが啼きながら駆け抜けていき…
こんなシーン、どこかで見たことないですか?
腐海に巨神兵の骸が埋もれ、蟲達が飛び回り…
ラピュタの庭園ではロボット兵ラムダが朽ち果て、苔むした肩ではテトが遊び…
そう、前回来た時、僕は思わず
「うわぁ~、マジにここ、宮崎アニメの世界やん…バルス…」
と呟いてしまったのでした。
パワースポット的な場所ではないけれど、
何だかとっても不思議な、落ち着く場所。
ぜひまた訪れたいなぁ。
対馬には全部で大小31もの砲台が築かれていたんだとか。
僕が行ったことあるのは、ここ上見坂堡塁を含めてわずか3ヶ所。
(ちなみに後編PART3でも、もう一ヶ所砲台を訪れてます。)
一度、一週間ぐらい長逗留して、全部の砲台を巡ってみたいなぁ。
(ほんだったら韓国なんぞに渡らずに、ずっと対馬におったらえぇじゃん、
というツッコミは無しでお願いします。)
上見坂公園を後にし、車を西へ。
そして次の目的地、小茂田浜神社にやって来ました。
この神社の御祭神は宗助国(そう すけくに)公とその一族郎党。
時は文永十一年。
神州の国土を脅かさんと、
雲霞の如く海上を埋め尽くす九百艘の軍船に乗りて對馬沖に攻めきたるは、
蒙古と高麗の連合軍、総勢三万三千。
内千人の兵どもがこの小茂田の浜に上陸し、狼藉の限りを尽くしたり。
これを迎え撃つは、對馬目代右馬允(つしまもくだいうまのじょう)にして
齢(よわい)六十八の老将・宗助国公。
一族郎党八十余騎の手勢をうち従えて、迫りくる蒙古の軍勢に勇猛果敢に突撃し、
ばったばったと切り伏せて、千切っては投げ千切っては投げ、獅子奮迅の働き。
蒙古・高麗の兵ども、遠く異国の地に自らの屍を累々と晒すこととなりぬ。
しかしながらも多勢に無勢。
矢尽き刀折れ、郎党一人また一人と斃れ、奮戦むなしく助国公もついには討死。
皆々玉砕し、戦場の露と消えにけり。無念。
なんて、ちょっと講談調で書いてみたけど。
鎌倉時代、モンゴルの大帝国・元が占領国・高麗を従えて、
2度に渡り日本に攻め込んできた戦いを『元寇(げんこう)』といいます。
そしてその2回は年号から、それぞれ下記のように呼ばれます。
1度目:文永の役(ぶんえいのえき・文永11年・1274年)
2度目:弘安の役(こうあんのえき・弘安4年・1281年)
うー、鎌倉時代っていつだっけ?
うー、元?高麗?どんな国だっけ?
ごもっとも。
日本の時代区分や、朝鮮や中国の王朝ってめまぐるしく変わるもんね。
そこで大雑把な一覧表を作りました。
読者の皆さん、がんばって付いてきておくれぃ。
http://www.ugoky.com/chizu/ugoky_chizu.swf
上記リンクは『歴史地図2000』。
カーソルを1300年ちょっと前に合わせると、
当時の元寇の頃の極東情勢がよく解ります。
話を元に戻して。
日本の最前線であるここ対馬は1度目/2度目のどちらも攻められてるんだけど、
1度目の文永の役では元軍はこの小茂田浜に上陸しました。
そしてここ小茂田浜神社には、
その時元軍を迎え撃って戦死した対馬国守護代・宗助国(宗氏二代目、重尚の実弟)と、
彼に従った将兵の霊が軍神とされて祀られています。
対馬は日本一神社密度が濃いんだけど、この神社は他とは別系統。
国家のために殉難・戦死した人の霊(英霊)を祀るために建てられた各都道府県の護国神社や、
その総本山・東京の靖国神社と同じジャンルの神社ということになります。
これが神社の拝殿。
神社の規模としてはその辺にある村社(村の鎮守様)と変わりがないくらいの
ちっぽけな神社なんだけど…
境内には訪れた参拝客や観光客へ、
来襲する元・高麗連合軍に対し、
日本軍かくも戦えり
と解説する新旧の案内板がいくつも建てられています。
この文永の役の時の対馬島民の境遇はというと、悲惨そのもの。
男子は皆殺しにされ、
女子は手に穴を開けられて紐か縄で繋がれて船壁に並べられて、
文字通り人間の盾にされました。
また連れ去られた子女は奴隷として高麗国王と
その王妃(元皇帝クビライカーンの娘)に献上されました。
ということで、拝殿横には慰霊碑が。
左が650周年(1924年・大正13年)のもの。
右が700周年(1974年・昭和49年)のもの。
(年は単純に足し算したもの。碑に○○年建立と書いてあったかまでは未確認。)
慰霊碑のてっぺんには平和の象徴・ハトが乗っかっています。
この傾向と対策によると、次の慰霊碑建立は750周年・西暦2024年かな?
ただしこの小茂田浜神社、文永の役が今の神社のまさにこの位置で戦われたことを
後世に伝えるために記念碑的に建てられたものではなく、あくまでも慰霊施設。
当時の小茂田は沖合いに砂州があり(今現在のこの神社周辺のこと?)、
そのことから佐須浦と呼ばれた天然の良港。
そして神社のすぐそばには佐須川が流れているんだけど、
当時の海岸線はこの川沿いに500mほど切れ込んだ深い入り江になっていたそうな。
ただ江戸時代になって周辺一帯は新田開発のために埋め立てられたため、
実際の合戦がどの辺りで行われたかは、今ではもう判らず。
神社自身もかつては助国公が討死された場所に小さな祠があったらしいんだけど、
それが南北朝時代になって今の場所に遷座されたんだそうな。
実は道順から小茂田浜神社に先立って立ち寄ってきたんだけど、
神社から東に500mほど手前、
観音山にある名も無きお堂の境内の一角には「御首塚」、
そこから200mほど離れた法清寺の境内には「御胴塚」、
があり、助国公の亡骸が別々に葬られています。
そして更に調べてみると、
これらの他に「腕塚(かいなづか)」・「太刀塚」というのも別にあるらしい。
うわー、バラバラじゃん、悲惨…
どうも助国公とその郎党の活躍により散々な被害を蒙った蒙古軍は怒りに身を任せ、
討死されてもう手も足も出ない助国公の御身を無惨にも引き摺り廻したらしい。
そのために亡骸も散り散りになってしまい、葬った塚が周辺に点在することに。
ただそんな大活躍をした助国公だからこそ、
700年以上経った今ても島民にこうして崇め祀られているんだろうなぁ、と納得。
でも名前が『助国』なんてちょっとできすぎてるなぁ、とちょっと疑問。
ま、何はともあれ、南無阿弥陀仏…合掌。
さて小茂田浜神社を後にし、次の目的地を目指し今度は車は南へ。
でその途中、椎根という集落を通過。
ここには石屋根倉庫という対馬独特の建築物が建っています。
食料の自給自足が困難だった対馬にとって、食料保管倉庫は何よりも重要。
しかし対馬海峡に面するこの西海岸では、風速10m以上もの強風が吹き荒れることもあり。
なので藁葺きや茅葺き屋根では一発で吹き飛ばされてしまうんだろうけど、
そのくせ庶民には瓦葺き屋根は認められず。
そこで対馬のどこででも採れた平たい石・頁岩(けいがん)で屋根を葺きました。
どうも対馬は地震が少ないので、重たい石の屋根でも大丈夫らしい。
さすが大陸との親交のあった対馬。
石葺き屋根とは故事『三隻小猪』の教訓を、いち早く取り入れてるね。
(※ウソです。『三隻小猪』=『3びきのこぶた』)
その他にも母屋と離されて建てられ(防火)、高床式(防湿)という工夫がなされ。
この石屋根倉庫、かつては対馬の各所に建てられていたんだけど、ほとんど消滅。
でもこの椎根集落にはまだ5棟ほどまとまって遺って建ってて。
でもでもかつては同様に屋根に石が葺かれていたであろうその隣の倉庫、
現在では庶民の瓦葺き屋根禁止令などあるわけもないので、普通に瓦が葺かれちゃってます。
こうして名物は、一つまた一つと消えてゆくのだなぁ。
さて次の目的地は、辺鄙な対馬にあって、更に輪をかけて辺鄙な所。
まぁこの辺鄙さにこそ、実は重要な理由があるんだけど。
どれぐらいの辺鄙さか、というと…
まず道自体はそれほど悪くはないんだけど、この道ナビには存在しません。
できたての高速道路を走ったりするとよくある現象だけど、
ナビ画面での自車位置を示す赤い矢印マーク、
道のない空白の山の中を空を飛ぶごとく進みます。
そしてしばらく行くと分岐があり、目的地の方へと曲がると道はドンドン悪くなっていき。
実は前回の2009年、ちょうど下の写真の辺りを走ってた時、
フロントガラスのわずか1~2mほどのまさに目の前を、
野生の鹿が突然飛び跳ねて横切り、思わず急ブレーキを踏んだ、なんてことが。
今回目指す物件、鎌倉時代の物なんだけど、
平成の御世でこんなんだから、700年以上前の当時の道は如何ばかりか…
こうやってやってきたのが島の南西部に位置する久根田舎という集落。
集落名に『田舎』が入っているという、正真証明の田舎であります。
で、ここに何があるのかというと、
それはなんと『安徳天皇陵墓参考地』。
これは久根田舎集落の中心部にあった集落全体の案内地図。
ただ錆びちゃってて、剥げちゃってて、あんまし読めない。
でも確かにこの地図の最上部中央に鳥居が書かれていて、
ほとんど消えちゃってるけど、なんとか『安徳天皇○○』(『○○』は『御陵』?)と読める。
ところで
「安徳(あんとく)天皇って誰?」
っていう方も多いかも。
源平合戦フリークなら必ず知ってる人で、
2012年大河ドラマ『平清盛(たいらのきよもり)』の第44話で産まれた清盛の孫、なんだけど。
「大河見なかったし、知らねーよ。」
ごもっとも。僕も30話で挫折したし。歴代視聴率ワースト1だったしね。
(あ、第44話というのはNHKの公式HP見て調べました。)
上記が関係する人々の家系図。
ちょっと説明すると。
平安時代末期、貴族による藤原摂関政治がぐらついていた頃、
「平家にあらずんば人にあらず」
平氏の棟梁・清盛は武家政権樹立を目指します。
その時の天皇は清盛の甥・高倉天皇。
でも甥といっても妻の異母妹の子。結構血の繋がりは薄くて。
そこで高倉天皇に娘・徳子を入内させます。
そして思惑通りに皇子が産まれると、さっさと高倉天皇を退位させ、
数え年三歳(満1歳4ヶ月)の孫・安徳天皇を即位させます。
そして当たり前だけど幼児に政治はできないので、天皇の外戚として政治の実権を握ります。
(↑高松平家物語歴史館の蝋人形)
そしてその頃、源頼朝・義経兄弟ら源氏が打倒平氏の旗を掲げて挙兵。
清盛の死後、源平合戦は一の谷の戦い・屋島の戦いを経て、
1185年、最終決戦・壇ノ浦の合戦(山口県下関市)へ。
船戦が得意な平氏軍に対し、不得手な源氏軍の総大将・義経は、
「平家方の軍船を操る水夫を射殺せ!」
という、画期的に外道な指令を源氏軍に発します。
当時の戦争常識では水夫は非戦闘員。
確かに戦場にいるんだから水夫に流れ矢が当ることもあっただろうけど、
水夫を率先して狙うのは禁じ手でした。
しかしこの掟破りの戦法により、操船ができなくなった平氏水軍は壊滅します。
(↑下関にあった安徳天皇・二位の尼入水像)
この時哀れ御年八歳(満6歳4ヶ月)の安徳幼帝は、
「極楽浄土へお連れいたします。波の下にも都があるのでございますよ。」
と、祖母の二位の尼に抱かれて、壇ノ浦の急流に身を投じられ、海の藻屑となられたのでありました。
源平合戦の文字通りクライマックス(泣き所)だね。
ちなみに大河『平清盛』で清盛の継室(後妻)・時子(二位の尼)を演じたのは深田恭子。
確かに深キョンにギュ~って抱きしめられたら、
逝っちゃうよね。昇天しちゃうよね。「もう死んでもいい!」って思っちゃうよね。
(意味が違~う!)
(↑赤間神宮)
合戦後、安徳天皇の御遺体は発見されることなく。
そこできっと竜宮城に逝かれたんだろう、ということで、
壇ノ浦の岸辺に、慰霊のために等身大に彫られた木像を御神体とし、
竜宮城を模した赤間神宮が建てられ、そこが宮内庁公認の陵(お墓)とされました。
ところがところが。
御遺体がなかったことから、安徳天皇は壇ノ浦で入水しておらず、
どちらかに落ち延びられたという伝説が、
北は青森から南は鹿児島まで日本全国各地に18ヶ所もあり、当然お墓も各地にあって。
2005年の大河ドラマ『義経』においても、
二位の尼に抱かれて入水したのは異母弟の守貞親王だった、という替え玉説だったし。
ただ安徳天皇落ち延び伝説なんだけど、僕の勝手な考えでは。
例えば辺境の村に元平氏の家臣が亡くなった主君の遺児を連れて落ち延びてきて。
で、甲斐甲斐しくその子を育ててて。
で、それを見た原住民の村人達が、
「もしかしてあの子供、安徳帝じゃないの?」
なんて噂してたのが、後世まで伝わったんじゃないかなぁ、と思う。
何しろ元家臣に直接
「あの子って安徳帝?」
って聞けないし、聞いた所で
「まっさかぁ~、違いますよ。」
と否定されてお終い。
でももし、そのセリフをも疑っちゃったら。
ま、確かに
「そのとおり。帝であらしゃいます。
なので帝の口に合う高級な食材を持って参れ。」
なんて言う奴もいたかもしれないけど。
でもそれならすぐに役人に通報されて捕まっちゃっただろうし、
そしたら結局すぐに嘘がばれちゃっただろうし。
で、辺境の島・対馬の安徳天皇伝説も、どうせそんな話だろうなと思ってたんだけど、
ところがどっこい、予想とは全く違ってて。
さて、久根田舎集落案内地図のすぐ横の路地には、
『安徳天皇御陵墓参考地』
と書かれた、立派な矢印看板が建てられていて。
また立派な案内板もあって。
ということで、この路地を入っていくと…
細い道がクネクネと続きます。
今回軽自動車だからいいものの、この道を難なく走れるのはせいぜいコンパクトカーまで。
それ以上の大きさの車ならもう走りたくないなぁ。絶対擦っちゃう。
クネクネ道をソロリソロリと走っていくと…
分かれ道が。
ここには矢印看板はないんだけど、石畳は右の道の方に続いてて…
で、走っていくとようやく視界が開け、立派な階段と案内板が現れます。
車を停めて階段を上っていくと…
確かに小さな鳥居があって、奥には御陵が。
御陵にはちゃんとした門もあって。
御陵参考地と書かれた宮内庁の立て札もあって。
ちなみに上のは参考として、白河天皇陵の写真。
大河では伊藤四朗が白河法皇として熱演してました。
(天皇が譲位して上皇(太上天皇)になり、そして出家すると法皇になります。)
たけど、この人が白拍子に手を出し、
そして自分の孫・鳥羽天皇の嫁になる養女にまで手を出しちゃったのが全ての元凶なのだ。
あ、松田翔太演じる『後』白河法皇じゃないですよ。
後白河天皇は白河天皇のひ孫になります。間違えやすいけど。
ということで、これまでいろんな天皇陵に行ったことあるけど、
対馬の御陵はそれらに準じて最低限の様式が整っています。
参考写真その2。
かつて旅行に行ったことのある、鹿児島・薩摩硫黄島にある安徳天皇のお墓。
こちらは鳥居も門も全くなくて出入り自由だし、宮内庁非公認なんで立て札もなくて。
見比べると一目瞭然。
対馬の御陵はかなりしっかり作られているのがわかります。
(↑壇ノ浦の碇知盛像)
さて、対馬の安徳天皇伝説に戻るんだけど。
壇ノ浦で入水されなかった安徳幼帝が、そのまま辺境の対馬に逃れてきてお亡くなりになった、
という単純なストーリーではありません。
話は壇ノ浦の合戦に戻って。
義経の反則により平氏水軍は壊滅。
でこの時の平氏水軍の総大将は、清盛の四男で猛将と称えられた平知盛(たいらのとものり)でした。
彼は最期の時に碇を担いだとも、鎧を2枚着込んだとも、
自らの亡骸が浮いてこないようにして入水して果てたとのこと。
あまりにも壮絶な最期だったんで、
現在でも『碇知盛(いかりとものり)』として歌舞伎の題材となって上演されています。
で、彼には何人か子供がいたんだけど、
三男に平知宗(たいらのともむね)という人がいて。
この人、平氏が源氏によって京を追われ、各地を転々としている最中に誕生。
父・知盛が壇ノ浦の合戦で亡くなった時、まだ乳飲み子でした。
その後、知宗は乳母の惟宗氏と太宰小弐(大宰府長官)・武藤資頼の庇護を受け、
そのまま武藤家の養子となり、父・知盛の名から『知』、乳母の実家・惟宗家から『宗』の字を貰って
武藤知宗と名乗り、そのまま大宰府に就職。
重尚・助国兄弟を儲け、大宰府で天寿を全うした、とされています。
そして長男・重尚は惟宗氏から『宗』姓を名乗って父と同じく大宰府に就職し、
阿比留氏追討のため対馬・上見坂へ派兵。
合戦で阿比留氏を破り、実力で対馬国の守護代にのし上ります。
ただし重尚はその後すぐにお亡くなりになられた様で、
二代目を継いだのは文永の役で討死することになる実弟の助国でした。
ところが対馬の伝説では。
安徳天皇は1185年の壇ノ浦の戦いから落ち延び、やはり太宰小弐・武藤資頼の庇護を受け。
そして島津氏の娘を娶って重尚・助国兄弟を儲けた、とのこと。
そしてそして長男・重尚が1246年に上見坂の合戦に勝って対馬の覇権を握り、
その2年後の1248年、宗氏を継いだ次男・助国により、
対馬のこの地・久根田舎に迎え入れられた、とのこと。
この時既に壇ノ浦の戦いから63年、安徳幼帝ももう70歳の老人となられてて。
とっくににっくき義経も頼朝も死んでるし、源氏の嫡流すらも途絶えてて。
鎌倉幕府自体も頼朝の妻であった政子の実家で平氏の末裔を称する北条氏が
執権として実権を握ってて。
なので平氏の敵として憚るべき相手・源氏はもう誰もいないんだけど、
それでも人目を憚り、対馬という辺鄙な島のそのまた辺鄙な久根田舎のこの地に御所を建て、
父・安徳天皇を迎え入れたとしたら…
うーむ、ありえるかも。
少なくとも、対馬国の支配者・助国が国府にあった自分の屋敷やその近所にではなく、
何故かこんな辺鄙なこの久根田舎に立派な御殿を建てて、謎の老人を匿ったというのは、
その老人に何らかの曰くがないと。
定説の父・平知宗と伝説の父・安徳天皇は同じ平清盛の孫。
長男・重尚の生没年は判っていないので省いて、
次男・助国の生年もよく判ってないけど、
1274年の文永の役に助国が68歳なら、数え年も考えて1207年産まれ?
で、安徳天皇は1178年産まれ。
もし本当に生きていたのなら、29歳の時の子。
重尚・助国兄弟を儲けていても全然不自然じゃない。
(ちなみに知宗23歳の時の子になります。)
結局安徳老帝は3年後の1251年、
この久根田舎において74歳の天寿を全うしたんだとか。
実際はどうだったのかなぁ?
なんて考えると、こういう伝説って歴史浪漫があってよいなぁ。
さてさて、まだ2日目の途中だけど、今日はボリューム多いんで
PART2『走れ!ピョンギョン(辺境・변경)』 … レンタカーで対馬激走311km前編
はここまで。
後編PART3へ、To be continued…
P.S.
ということで、PART2のタイトルは『走れ!ピョンギョン(辺境・변경)』。
ネタの元曲名は『走れ!ペンギン』。
残念ながらお下がり公演だけでオリジナル公演をもらえないまま、
昨年の第二次組閣(チーム再編成)で解散してしまった末っ娘チーム4。
そのチーム4の数少ない代表曲で、
リクエストアワー2013において、AKBグループの対象楽曲全536曲の中から
ファン投票で頂点の第1位に選ばれた人気曲です。
確かにコンサートではお馴染みの曲だし、僕も大好きな曲ではあるけど、
まさかまさか、1位になるとまでは思っていなかったけどね。
24thSingule・劇場版・C/W・『走れ!ペンギン』
http://www.dailymotion.com/video/xx8t5z_akb48-yyyyyyyy-yyyyyyyyy100-y1y-yyyyyy_music
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文章・写真共にはにーさんの著作です。